田舎司祭の日記 Journal d'un curé de campagne
ブレッソンの映画が復刻しようとしている折に、ミニシアターが多く集まる東京の映画館が封鎖され、期待を先延ばしにされてしまった。その中で唯一ともいえる本作を新宿で鑑賞できた。奇跡的とも言える。
ブレッソンの映画は時として睡魔との戦いだ。この映画もある意味で知識を最高レベルに置かないと、夢の中へ誘われてしまう。フランスの田舎に赴任した病弱の若い司祭が、排他的な田舎社会からスポイルされる話し。とにかく延々といじめられる。
ジョルジュ・ベルナノスの原作をロベール・ブレッソンが究極的に緊張感のある映像で昇華させた傑作だ。日記形式なので言葉の数が多いように思えるが、実際の人物同士がする会話は少ない。
司祭の仕事を邪魔するのがこの美少女シャンタル。聖職にある司祭の心を翻弄させる美少女。小悪魔のような存在でありながら司祭の心理をゆさぶり病を悪化させてゆく大きな存在。映画を見る限り、この少女の不思議な存在はまるでわからない。しかし冷静に考えると、この小悪魔が司祭を悩ませる物語として大枠が語られていると思う。
この美しい映像と哲学的な宗教上の会話だけを追ってもこの映画はわからない。キリス教に限らず、この司祭のように極限まで自らを律して生きることの価値と意味は、その後の多くの映画などに影響しているらしい。町山智浩さんの『映画ムダ話』によれば、遠藤周作の『沈黙』に影響したことに加えて、コーエン兄弟やダルデンヌ兄弟の作品群、そして何よりもスコセッシの『タクシー・ドライバー』がこの映画をなぞっているらしい。
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HOKUSAI
評論家の評価はいまとつだったようだが、個人的にはとても良かった。『HOKUSAI』とても感動した! くわしいレビューはこちらで探してね。 ←
良し悪しを語るというより、この映画が必死に言わんとすることをひとつ絞るとすと、それは言論の自由への弾圧だろう。まさに表現の不自由。
前半の主役は北斎というよりも、北斎のパトロンとして大勢の画家を支援した蔦屋重三郎だ。阿部寛さん演じる蔦屋「耕書堂」が役所が立ち入り売り物の本や絵を燃やす、というシーンから始まる。この映画は最後まで一貫してこのことを表現しようとしている。
そして何より感動したのが、田中泯さん演じる晩年の北斎がとにかく素晴らしい。強風に吹かれたときの町民を描いたりするシーンに圧倒される。彼がもともと世界に名だたる舞踏家だったこともこの映画で表現されている。青い雨が降るシーンがとてもとても感動的だった。
彼を慕う武士で役人の瑛太さん演じる柳亭種彦の関係。天保の改革の時代なので、彼が本当に殺されたのを史実として描くのもまた勇気のいることだったと思うが、瑛太さんが壮絶な死を遂げるシーンと対峙する北斎(田中泯)が描く絵の見事さに強く感動を覚えた。
絵で世界は変わらないと思う。
しかしこの映画が、日本が過去の言論弾圧を同じぐらい危機的なメディア規制下にあって、先進国でもまれにみる言論鎖国状態であることを伝えようと努めていることだけは伝わった。
・・・・・
それでも日本は変わらないのだが・・・
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エデン
Netflixオリジナルアニメ『エデン』を英語と字幕で鑑賞。
デジタル2Dアニメはなんとなくジブリと細田守さんを混ぜた印象だったが、監督の入江泰造氏はあの傑作『僕らのウォーゲーム』の原画を担当されていたようだ。どうりでイメージが重なるわけだね。
ずっとずっと先の未来の話し。ずっとずっと先だから、もう自分たちはこの世にいない。ロボットが美しい自然と共生している社会がそこにある。りんごがあちこちに散らばっている。そこに人間の赤ん坊が突然降りてくる、というお話。話しはどんどん飛躍して、この少女サラが大きくなって、ポッドに待機する35,000人という数の人間を呼び起こせるかどうかの物語。
少女の幼い頃は『風の谷のナウシカ』だったり、大きな樹がそびえる空間は『天空の城ラピュタ』だし、ロボット同士の対決は『エヴァンゲリオン』だったり、ありとあらゆる傑作アニメを凝縮させたうえ、『スターウォーズ』のシリーズを彷彿とさせるロボットや砂漠のイメージも蘇らせる。敵対するロボットの造形は、まるで『悪魔くん』に出てくるロンブロゾー。話し方はダース・ベイダー。
この人物がいったい誰なんだ?というのが物語の前半のサスペンス。そして主人公にある決断が迫られるのだが、これが究極の決断。この決断をどこまで受け入れるか?という問いに我々人類はまだ正面を向いて応じていない。
子供が見ても楽しめる映画だが、もし子供と一緒にこの映画を見る親御さんがいたら、ぜひこの映画の本当の意味を語り合ってほしい。そう思わせる映画だ。子供は未来であり希望だ。あの残酷な『プラットフォーム』ですら、最後は子供に希望を託して終わっている。先に死ぬのは親のはずだ。しかし親は本当に子供の未来とその環境について、真剣に真剣に考えているのだろうか。
この映画のタイトル『エデン』とはまさにアダムとイヴの話しでもある。エデンの伝説の樹とりんごはこの映画の軸となっている。人間が知恵の樹(禁断の果実)をかじったときから破滅への道が作られていたのではないか。スタインベックは『エデンの東』で旧約聖書のカインとアベルのカインを東へと逃亡させた。そして対立へ。人は人と諍い合うために存在しているのか。ところがこのドラマでは、人間が作ったロボットが平和を維持している。
究極の選択で主人公の選択がどこまで真実かを探る。すごい話しだ。
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アメリカン・ユートピア American Utopia
デビッド・バーンとスパイク・リーによる『アメリカン・ユートピア』を鑑賞。
公開が延びていたが、なんとか鑑賞できてよかった。
シネクイントって渋谷に2つあって、勘違いしそうになった。パルコの8階が今回の劇場。小さいながらもシートがふかくて立派な劇場でした。席を一つずつ開けてましたが、どうやら満席だったようです。そりゃそうです。これ今年1番感動した映画です。
デビッド・バーンというとトーキング・ヘッズのフロントボーカリストとして、あるいは環境音楽の先駆者ブライアン・イーノとの連作、または坂本龍一さんとともに『ラスト・エンペラー』でアカデミー賞を受賞した偉大なアーチスト。その彼がここに至ってこの映画をスパイク・リーと組んで作った理由の大きなひとつがジョージ・フロイド事件だったとは驚き。『隔たる世界の2人』という短編映画が重なる。あるいは『See You Yesterday』もそうだ。
冒頭のシーンから涙が出てくる。デビッド・バーンがデスクに座って脳の説明をする。そして脳があらゆるバランスをとっていることを説明する。その後に出てくるコーラス兼ダンサーの2人。濃いメイクをした男性と男勝りの女性。もうこのワンシーンでこの映画た多様性を意味することがわかる。このあたりからもうわたくしはおろおろする。尋常ではいられない。
曲の終わりに、子供の脳が最も情報量が豊富で大人になるに従って劣化してゆくものであることが説明される。ほかにも選挙のこと。わずか20%の投票率で国政が決まってしまう矛盾。日本の政治はまさにそれだ。投票率が下がったほうが与党に有利な政治ってどうなんだろうか。
このステージを構成するのはデビッド・バーンと11人のメンバーだ。彼らもまた多様性そのものだ。アメリカだけでなく、敢えてアメリカと隣接する国からの有能なアーチストをより集めた。彼らの演奏も踊りも何もかもが計算しつくされたものだ。そしてステージセットは極めてシンプル。バーンはそのことも説明していて、人は物ではなく人の動きを最初に察するらしい。そのとおりだろう。彼らが裸足でパフォーマンスすることにも意味がある。彼らが全てをさらして観客と向き合おうという意思表示だ。
このステージが企画されて、ジョージ・フロイド事件が発生して、アメリカが分断の危機にあるこのときにこのステージを映画として広く公開する意義はとても重たく深い。”Hell You Talmbout”を会場の聴衆とともに絶叫するシーンでは意味もなく涙してしまった。その迫力に圧倒される。
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ウィロビー家の子どもたち The Willoughbys
原作者のロイス・ローリーは児童文学者だが、子供や若者向けの小説の内容がディストピアを暗に題材としているため、訴訟になったり図書館から排斥されたり、かなり過激な内容が多い女性作家だ。中には性同一性や差別、偏見などの内容を書いたりしているらしい。彼女のこうした辛辣な社会に対する批判的な姿勢は、どうやら幼い頃に父親の仕事の都合で世界各地を転々として(東京にも住んでたらしい)、その時の孤独を補うために読書が好きだったことなどが要因と言われている。作家に転身してからは、子供向けと思わせながら実は辛辣な社会批判、特に文明社会における非人道的労働などをほのめかす作品も多いらしい。
これはロイスが2008年にリリースされた児童向け小説。この話しに入る前に、昨日たまたま鑑賞した『クルエラ』がこちらの映画と同じ題材を抱えてることに驚く。詳しくはネタバレになるので書けないが、あちらの映画の最後のどんでん返しで、秘密が暴露されるのだが、それが世界のトレンドなのかと感じさせる。(自分も他人のことは言えないが・・・)
古くからある由緒ある家庭が中心。子供は4人。しかし親はまるで子育てに興味がなく、子供は悪魔だと思っている。子供を生んで置きながら子育てを拒否して、屋根裏に閉じ込めてしまう。この家は両隣が巨大なビルに挟まれていて古い屋敷で時代遅れのように示される。ディズニーの短編にもなった『ちいさいおうち』のイメージだ。
この代々かた伝わる家の夫婦は自分たちのことばかりが優先して、子供には全く興味がない。つまり家はもともとそこに勝手に存在するものだ、という無気力感。子供は親に何を言っても拒否される。長男が思いついて、親を海外旅行に追い出して、自分たちだけで自立した生活をしようとするドタバタ喜劇なのだが、これほとんどというかまったく笑えない。
親が旅行中の世話をさせるために雇ったマニー(お手伝いさん)は、彼女もまた孤児だったこともあって、この4人兄妹たちを助けようとするのだが、なかなか信頼されない。この間、親が旅行中に金を使い果たしたため、家を売ろうとするという展開になって想像を絶する状態に突入していく。それでも子どもたちは親の必要性を認め、旅行中雪山で遭難した両親を助けに行くのだが、そこでもこの両親は子どもたちを置き去りにして自分たちだけ飛行船に乗って逃げてゆく。
救いのないドラマは、ある種現実を示している。
親の子供に対する愛情が希薄なのは万国共通らしい。人が動物としての自覚を失ってゆく社会。人口減少の理由を教育に置き換える説もある。知性や科学の発達などが社会を進化させる反面、本能的な子孫反映、子供を守り育てて未来を育むという姿勢が失われてゆく。逆に貧しい家(あるいは国)が子沢山(人口増)なのはなぜか?と考えると、先進国のジレンマが透けて見えてくる。
ロイス・ローリーの示唆は自分にも当てはまる。彼女自身も4人の子供を抱えて離婚を経験している。
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クルエラ Cruella
エマ・ストーンがクルエラを演じると聞けば見ないわけにいかない。監督はクレイグ・ガレスピー。
これは驚いた。よくぞここまで緻密なドラマができたものだ。本当に驚いた。時代背景が1970年代だということもあって、バックに流れる音楽がまたワクワクさせる。ローリング・ストーンズやディープ・パープル、クイーン、レッド・ツェッペリンなど、どこかで聞いたことのある曲が延々流れるのがいい。
敵役の大御所デザイナー、バロネスに扮するのはエマ・トンプソン。エマ・エマ対決である。とにかくこの人の存在感の強さがこの映画の軸となる。なぜ彼女がクルエラの敵になるのか?についてはネタバレになるので書けない。もうとにかく面白い。面白すぎる。
存在感という意味では引けをとらないマーク・ストロングがバロネスの執事として登場するところがミソだ。このジョンという男、ただものではない。この男がドラマ全体の鍵を握っている。そして最後のどんでん返しのキーワードはまさに鍵だ。あっと驚くオチが最後に待っている。
ディズニーというとかつてほかの国の童話などを許可なくパクったという歴史がバッシングされた時期もあったようだが、『アナ雪2』あたりから原作者やドラマの出どころを示し、使われる曲などの著作権なども確保する方針に転換したらしい。このドラマの中に使われる曲が効果的に感じられるのも、まさにそうした配慮の賜物であろう。音楽の使い方がとにかく良かった。
クルエラの悲しい生い立ちをして『ジョーカー』と重ねる指摘もおおいようだが、作り手はこれを否定している。否定はしているが、主人公の才能あるやんちゃ娘が自立するまでの苦悩には孤独がつきまとう。そんな彼女を支えるのが、1964年の『101匹わんちゃん大行進』にも出てきたジャスパーとホーレスだ。この盗人2人の存在はクルエラにとってかけがえのないものであることが明かされる。
映画館で見るべき映画。とにかく最後のどんでん返しにびっくりする。
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ソフィア・ローレンだったなら What Would Sophia Loren Do?
ソフィア・ローレンだったなら(2021年製作の映画)
What Would Sophia Loren Do?
こちらは最近Netflixからリリースされたソフィア・ローレンの新作です。彼女の息子エドアルド・ポンティが監督した映画だが、今回はこの映画のイントロデュースとも言えるドキュメンタリー映画。
ソフィア・ローレンと同じ時代を生きたイタリア移民の子が恋をして結婚して、ちょっと不倫しそうになったりして、子供が生まれ、そして残念なことに子供を一人失って、孫ができて大家族になって・・・という幸せや苦労を重ねた人生をソフィア・ローレンとソフィア・ローレンの映画作品に重ねるという映画。
企画レジーナ・K・スカリーが自分の母親ナンシー・クリスの話しを聞いてドラマ化したようだ。それにしても時は残酷だが優しい。2人の同じ世代を生きた女性と彼女たちの環境の変化。コンテストで優勝して女優になって映画監督と結婚して2人の子供をもうけたソフィア・ローレン。彼女の作品群の生き様が、ナンシーを励ましてくれる。
ソフィア・ローレンの作品の中で彼女がアカデミー賞を受賞した『ふたりの女』にフォーカスする。娘をまもろうと必死に生きる母親。しかし娘がレイプされるという残酷なシーンがある。極めて残酷なシーン。ナンシーはこのシーンを自分に重ねて、守れないこともある、という残酷なときをじっくりと振り返る。
それにしてもなんと2人の美しいことか。ナンシーの美しさも素晴らしいが、やはりソフィア・ローレンの魅力が満載だ。子供の頃ソフィア・ローレンというとこわい感じのおばさんだったが、いまこうして振り返ると、なんと美しく闊達な女性か。感動で涙に震える。
最後にこの2人が初対面する劇的なシーンで締めくくる。画面の向こう側の憧れ。人生を重ねてきた幻想が本物になった瞬間。感動はさらに高みに至る。素晴らしい映画だった。
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