さよならテレビ (東海テレビ)
ドキュメンタリーの歴史でいえば、日本映画では大部屋が存在した映画会社がすべてを製作していた時代を経て、テレビの供給とともに広がってきた。大資本から解き放たれた金のない才能のあるアーチストがドキュメンタリーに進む。今村昌平、大島渚、最近だと是枝裕和がそうだ。彼らはもともと資本を後ろ盾としない、金のない才能あるアーチストである。
『人間蒸発』の衝撃、『忘れらた皇軍』の苦痛、これらは『ゆきゆきて神軍』や『全身小説家』などへと向かう。『誰も知らない』はドキュメンタリーではないが、是枝裕和監督のその後のタッチはここで生まれる。リアリティという非現実。
この『さよならテレビ』は、業界関係者で裏ビデオ的に拡散し、ついに来年ミニシアターを中心に劇場公開が決まったそうだ。東海テレビのドキュメンタリーというと、『人生フルーツ』が素晴らしかったが、これが長編ドキュメンタリーの12作目だそうで、テレビで放映されたものが”あいちトリエンナーレ”で劇場用に上映された。
話しは簡単で、テレビ局にテレビカメラとマイクを取り付ける、というだけだ。しかしそこから見えるテレビ局の内部はいかにも醜悪で、結局テレビ番組もスポンサーありきだといことで、局の上層部はひたすら数字を追い求める。そこに働き方改革の波が押し寄せて残業抑制が命ぜられる。数字は上げろ、しかし仕事はするな、というわけだ。
ここに3人の男性がドラマを構成する。一人は社会部記者で成功経験の薄い中年沢村。会社や体制に批判的だ。派遣社員の渡辺君はセンスの足りないドジ社員という印象。彼は結局1年で解雇となる。そしてアナウンサーの福島。福島キャスター中心で番組が作られてゆくが、結局彼も視聴率が稼げず番組の中央から降ろされる。いずれも負け犬である。この三人が直面するのは、テレビ局が抱える矛盾であり、過去に犯した放送事故のトラウマだ。こうしたジレンマに記者の沢村は会社を批判し、福島キャスターは安全運転でリスクを取らず、渡辺君はただただ失敗を繰り返す。
福島キャスターが、よりよい番組を作ろうと努めれば努めるほど、ミスや事故は続き視聴率は上がらない。そんな中、「不完全なロボット」の研究所を訪れて彼は解き放たれる。完全なミスのない朗読は印象に残らず、どじったりしたほうが人間味があって好印象を与えるという話しを聞いて開眼する。
しかしこうした話の最後に『人間蒸発』級にどんでん返しが待っている。実はこのドキュメンタリー制作にあたり、この三人は事前にターゲットとなっていて、仕込みが隠されていた。そのことを最後に示すことで、この映画の真実味が一定程度確保されている。
つまりこれらはフェイクである。
もう自分はテレビも新聞も読まず、マスメディアを全く信じていない。その意味ではこの映画ですら茶番だと思う。幼い頃からテレビが当たり前にあって、チャンネルをひねればなんでも見ることができた。しかし時代はもはやテレビの時代ではない。メディアの立ち位置もすべて変化した。その中でこの映画は、映画としての役割をある程度果たしているように見える。もうテレビの時代は終わった、というテーマが映画として成立させているのである。