《米谷健+ジュリア展》 だから私は救われたい
この2人は夫婦でアーチストだ。
ここ、ところざわサクラタウンの角川武蔵野ミュージアムで展示されている彼らの作品に至る。
テーマは「だから私は救われたい」
彼らが対峙するのは常に”不安”だ。自分のテーマも”将来不安”という不確実性なので、かなり重なる気がする。ここで展開されるのは彼らが移住した京都での出来事だ。都市での生活を離れて京都の田舎に移住したところ、彼らを待ち受けていたのは過疎化という現実だった。そして近隣農民の離農。廃業にあたりたまたま「やってみるか?」と声をかけられて一念発起したというエピソードは涙ぐましい。
涙ぐましいのだが、彼らの対応は正しいのではないかとも思う。現実はどんどん都市化が進み、地方都市は崩壊、農業も崩壊、生産も何もかも崩壊して世界に名だたる貧困国となった日本で、向かい風に立ち向かうような彼らの対応にほのかな憧れすら感じる。
こうした暗闇の中で目を凝らして見る作品群の緻密さは、彼らが肌で感じたことの表現んだ。SNSなどの進化で、何もかもがデジタルの世界でまことしやかに処理されてしまう現実に比して、彼らの誠実さが伝わってくる。
思えば現代美術華やかかりし昨今のアート業界で、二次元の絵画にこだわるピーター・ドイグの強さをも重ねさせるものがある。手に触れたら壊れてしまいそうな危険な手触りを想像させる彼らの作品からは静かで確かな”不安”に対する挑戦を感じさせる。しかしこの挑戦は必ずしも武器を持って戦うようなものではない。静かに静かに時間を重ねてゆくことによって多くの人々に自覚を促すかのような気概。
京都の片田舎で土の改良から始める、気の遠くなるような作業によって、はたして我々人類の愚かな行為が贖罪として受け入れてもらえるものかどうかも疑問だ。どんなに知性があってもそれを行動で示すことは難しい。
コロナでダメージを受けた経済は、病理ではなく経済的に人々を滅ぼしてゆくころだろう。そのときにこの2人が「救われたい」と望むために、自ら土を耕す姿を想像して心を打たれる。
人類はこの驚異に果たして知性で対抗できるのだろうか。この天井まで高く積み上げられた本の数々を見て、人類の偉大さ、文化の寛容さを感じ取る。しかし、これらの紙(神)の積み重ねで、本当に我々は救われるのか?地球上で唯一文明を築いた生き物が、実は最も脆弱な存在であることにそろそろ気づくべきなのではないか。
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