ヤクザと家族 The Family
綾野剛&舘ひろし『ヤクザと家族 The Family』本予告
先日、西川美和監督の『すばらしき世界』を鑑賞した直後なので、印象としては強く重なる。それはヤクザという反社会的勢力の在り方が問われているからだ。しかし、この映画の対岸にある本当の意味は少し違うと思う。『孤狼の血』という白石和彌監督の作品がある。あの映画はマル暴(警察権力)側の視点で描いた映画だったが、こちらの作品では岩松了さんの役がそれにあたる。
ヤクザは間違いなく社会的に存在が許されるものではない。しかしいつの時代にも社会に寄り添う存在でもあるヤクザの在り方とは常に”家族”であるということだ。しかし家族そのものの象徴であるヤクザが崩壊する姿は『ゴッドファーザー』でも語られているが、それはいつもその時代背景に左右される。この映画の隠れテーマはデフレだ。
舘ひろしの親分が「義理人情も金には勝てねぇってことか。」というセリフにもある通り、ヤクザというの抗争ばかりが言われるが、実は”貧困の受け入れ先”であったことも忘れてはなるまい。ヤクザを肯定するつもりは全くないが、親や兄弟を失って、戸籍すらも失われた天涯孤独な若者の受け入れ先にヤクザが存在した事実は否めない。むしろ行き場を失う子供を存在させた社会(政治)を責めるべきで、彼らには罪がない。
その意味で『すばらしき世界』の主人公も、この映画に出てくる若者たちも同じなのだ。彼らを生み出した行き場のない社会。むしろ責められるとしたら、彼らの足元につけ込む警察(国家)権力であろう。藤井道人監督は『新聞記者』でもかなり際どく権力批判を示したが、この映画でもヤクザと家族以外に権力への強い批判を示していると思う。
日本であれば『仁義なき戦い』から『アウトレイジ』に至るまで、いずれの時代にもヤクザの存在は露出してきたが、戦前戦後を踏まえ、バブルからデフレの時代をヤクザの終着駅とすることになならないだろう。なぜならマル暴が存在するからだ。彼らはヤクザが存在しなければ商売にならない。藤井監督の『新聞記者』でかつての公安が形を変えて存在していることと同義である。この映画の示す意味は極めて深い。
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