Dick Johnson Is Dead
いつものように町山智浩さんの推薦です。(町山智浩『ディック・ジョンソンの死』を語る)
まずディック・ジョンソンについて紹介しよう。彼はシアトルで精神科医を営んでいる老人だ。足の指がなく、妻は7年前に亡くなった。認知症だった。彼の娘は映画監督で、そんな父親(ディック・ジョンソン)が老いてゆくところを丁寧に撮影してゆく、というドキュメンタリー。
面白いのは、父親のディックが死ぬケースをいろんな状況で想像すること。物が空から落ちてきたり、心臓発作を起こしたり、建築現場の作業員にぶつけられて血まみれになったり、階段から落ちたり・・・。これがあまりにもリアル。最後に父親の葬式まで撮影する。これもディックの本当の友人知人を集めて感動的な葬式に仕上げるというもの。
半ば冗談のようで、人間の”死”に迫る。ディックの妻(監督の母)が認知症だったことと、ディック自身が老いて記憶力が低下してゆくところを対比させるのも痛々しい。しかしいずれ誰にも訪れる”死”をカラッと映画いているのがとてもいい。どうせ死ぬ。誰もが死ぬ。
彼らはセブンデー・アドベンチストは、キリストの再臨を待ち望む人たちに属し、死んだあと人はキリストが再臨するまで眠り続ける、という思想らしい。厳格な規律に支配される彼らだが、ディックはあまり規律に縛られず自由に子どもたちを育てたようだ。
この映画は『人間蒸発』(今村昌平)にも似ている。どこまでがフィクションでどこからがノンフィクションなのかわからない。わからないけども、登場人物のセリフに作為はない。例えば孫が「おじいちゃんどうせ忘れるからいいよね?」86歳の誕生日。あまりにも痛々しいが、これがもしドラマだとしたらどうだろう?と思わせる。ある意味でこの作品は映画論に迫っている。ドラマと現実の境目は何なのか?よく「実話に基づく」と称される映画もまたフィクションだ。主人公のディックの明るくて愛嬌のある人柄をカメラは追いかけるが、彼の本音はどこまでこの映画に示されたのだろうか?
最後の葬式シーンで、精神科医として活躍したディックを偲んで交わされる言葉。そこに監督のナレーションが重なり、「記憶の喪失も人を失うこと。」と添える。クローゼットの中で監督が”ディックの死”を何度も唱えて部屋を出ると、そこにはディックがいる。このラスト5分のためにこの映画は作られている。感動で涙が止まらない。
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