愛のコリーダ 修復版
大島渚ブームである。『愛のコリーダ 修復版』を鑑賞。
ドキュメンタリー作家の大島新さんの活躍もあるかもしれないが、大島渚が復活している。これには胸が躍る思いだ。
先日の『戦場のメリークリスマス』に続いて、大島作品の修復版として『愛のコリーダ』が上映された。実は東京で鑑賞予定だったが、どこもコロナで臨時休業となってしまったため、柏の葉キャンパスのららぽーとにあるMOVIX柏で鑑賞することにした。
この映画が話題になった頃、まだ中学生だった自分は映画館で鑑賞できず、ノーカット、ハードコアポルノという話題だけを聞いて悶々とする。その後数年経ってようやく見たビデオは肝心のシーンがカットされ、なにがなんだかわからない、という印象。当時はいわゆるヘアまでモザイクがかっていて、何を見てたのかもよく思えていない。
それからさらに年月を経て、あらためて映画館で初めてこの映画を鑑賞した印象は、この国の表現が閉鎖的であることの示すもので、正直言ってがっかりした。非常にがっかりした。モザイクシーンがとにかくいたるところに施されている。昔見たときのようにヘアまでは隠していないのだが、最も重要な部分は相変わらずモザイクで、最もがっかりしたのは、幼児が裸ではしゃぎまわるシーンにまでモザイクをかけている。これには正直言って憤りを感じた。
2人のセックスシーンが延々と続く映画で、セックス以外はほとんど印象に残らないのだが、何度か見直すとこの映画が本当に言わんとすることがほのかに伝わってくる。これは一種の戦争に対する皮肉、もっというと反戦映画なのだ。吉蔵が定の要求になんでも応じる。「いいよ、いいよ」と応じる先に”死”が待ち受けている。吉蔵の”死”に至るまでの逡巡がかすかに示される。このなんでも肯定する行為が、この国の国民を偏りのある思想に導いたことを示しているように感じさせる。
最後の大島渚監督自身のナレーションで、この事件が1936年(第二次世界大戦前夜)であることと、当時の抑圧された社会の中で阿部定がまるで英雄のように扱われたこと、と語る言葉にこそ、当時の日本の状況、つまりは国家(軍)による圧力が大きかったことと、それに反発することで定が英雄扱いされる社会であったことを語ろうとしている。
吉蔵が外を歩くと、陸軍の兵士が長い隊列をひいて逆方向に進んでゆく。その傍らで自由気ままに生きる吉蔵と定。この対比する表現にこそ、日本の実情を示している。そしてこの映画全体が21世紀になっても表現を許されない日本にまだ戦前戦後の思想が残っているという恐ろしい現実を伝えんとしているように感じる。
定が加えた包丁で切り落とした一物は、男性そのものであり日本という国と戦争に向かう軍を象徴している。そしてそれをばっさりと切り落とす定の心情は、愛国心という作用に対する反作用のような状況をもかもしだしているのではないだろうか。
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