dalichoko

しょうもない

隈研吾展 

今週のお題「100万円あったら」 フランスラグビーワールドカップツアーに行く


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竹橋の近代美術館で隈研吾展を鑑賞。

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じっくり鑑賞して、感想をどう書こうかと色々考えるのだが、結論から言うとこれを文字にしても意味がないということだ。敢えて言うなら、隈研吾さん自身が過去の偉大な建築家(例えば丹下健三磯崎新)をリスペクトしつつも、強く否定している点が極めて説得力を持つというところだろうか。あとはとても説明がつきにくい。

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そこには間違いなく建築物という”モノ”がある。しかしそれ自体が何かを意味するものではない。「雑草を除去するという行為はシステムへの隷従を意味し、効率という名の不幸、建築という名の不幸へとつながる。」というコメントは重い。隈研吾さんは建築そのものを否定しているのだ。

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日本人はどう死ぬべきか』という養老孟司先生との対談本の中で「住宅ローンの魔法にかかったサラリーマンという高等な奴隷」という言葉で、戦後の成長からバブル後のデクラインへと落ち込む日本人を”奴隷の隷従”という言葉でつなぐのが隈研吾流ということだ。これらの言葉は痛くて重たい。

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孔、粒子、やわらかい、斜め、時間

というカテゴリーはすべてそれ時代が歪みを兼ねているということを意味している。木材という素材を扱いながらも、その弱さと強さと変化を織り交ぜて建物を地域と密着させようとする隈研吾さんの働きは、彼の本来の狙いとはどんどん違った方向へ進んでいるようにも思える。

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この矛盾をこの展示では”猫”が補ってくれている。実にユニークな試みで面白い。猫が存在する社会、その肌触りであり狭さであり変形(斜め)であり、そうした不安定性と不完全性の中に、人が猫に学ぶ建築や住まいの在り方を暗示させてくれるようだ。実に面白い。

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コルビジェの「運動と時間」、ジェイソン・ジェイコブスの「ボロ(=エイジング)」という発想。改修を雑音と位置づける人とのやりとりを建築と考える点などはとても学ぶ部分が多い。これは三陸沖の復興プロジェクトへと影響する考え方である。

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ピエール・カルダンドキュメンタリー映画を見て思ったことと、この隈研吾さんの展示を見て思ったことは、アートの意味である。ファッションそのものに意味はない。それは建築においても然りだし、絵画だって彫刻だって文学や音楽や映画だってなんの役に立たないものだ。しかし、これがもしなかったら?と考えると、その無味乾燥で無機質な社会を我々は想像できるだろうか。

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