GENKYO 横尾忠則はどこへ行くのか
この一連の膨大な作品群を見続けるのはとてつもなく体力がいる。何しろテーマが広く情報量が膨大で、どの作品にも吸い寄せられるようだ。この迫力は現地で確認していただくほかない。
横尾忠則は歳を重ねるに従って、より内面へと進んでゆく。ひとつは「Y字路にて」のシリーズ。彼のノスタルジーと彼が赴いたあちこちに見かけるY字路を反復することで、都市や街の人々が行き交う交差点に魂と肉体を置き換えている。この交差点で何が過ぎ去ってゆくのか?をいかに生きるかという本質へと導いてゆく。
飼い猫タマとの日々を写真ではなく絵で残した「タマへのレクイエム」もまた素晴らしい。タマへの愛情が溢れている。アーチストが猫を好むのは、隈研吾さんのインスタレーションにも重なり、猫の目線と猫を見る自分との対峙が作品へとつながっているように感じる。
最後に、絵画を否定したマルセル・デュシャンを横尾忠則は否定する。概念の否定を否定することは、結局デュシャンを肯定することだ。横尾からすると前時代のデュシャンを扱うのは、単に絵画とか芸術とかいう次元だけでなく、先に示した”生と死”を重ねるものだ。そして横尾自身がそうであるように、常に時代とのズレを生むこと。”反時代的であること”がデュシャンを否定することによって生じた同一性だ。
「終わりなき冒険」のコーナーからは、ここ1年の間に彼が製作した巨大な絵画が延々と並ぶ。もちろん、このコーナーを示すのがこの展示の目的である。しかし85歳になってもまだ衰えぬ創作意欲には驚かされ圧倒され、ここまで見てきた彼の長い長い歴史と作品を考えて、いったい彼はどこまで行こうとしているのか?を想像する。それに対する答えはない。それは見る側の考え方ひとつだ。彼はとにかく目の前にある時代を写し、時代に反抗し、時代を超越しようとする存在なのだ。
この展示をひとことでくくるなら、
時間
だ。ここで横尾忠則の作品に接した時間は、単にここに存在した自分ではなく、過去から未来へと想像を巡らせる恐ろしくも期待の大きい時間の概念を示したものだったと解釈する。
★
★