水俣曼荼羅 原一男監督
今週のお題「最近あったちょっといいこと」
いつもしょうもないブログですけど、今週はいい映画にたくさんめぐり合えて、うれしくて記事にしてしまいました。「最近あったちょっといいこと」それはこの映画を見ることが出来たことです。
原一男監督の『水俣曼荼羅』をシアターイメージフォーラムで鑑賞。
6時間12分と長尺。
渋谷ではなく原宿から表参道を上がって青山通りに向かう。いい天気だ。東京はすっかりコロナを忘れてしまったようだ。しかし忘れてはならないこともある。この日見る映画はそういう映画だ。
いつもだと早めに行って行列に並ぶのだが、ここもようやくオンラインチケットで座席指定できるようになっていた。ありがたいことだ。
開場が始まると列ができて、地下のシアターに入る。8割の入りだろうか。6時間の長尺をほぼ満席の劇場で鑑賞するというのも驚きだ。客席は無言だが熱気に満ちている。
3部構成で2回の休憩がある。そしてなんとこの日、原一男監督の舞台挨拶とサイン会があるとのことだ。ラッキー。
この映画をひとことで説明はできない。例えばジョニー・デップがユージン・スミスを演じた『ミナマタ』なら「世界に知られざる日本で起きた水銀被害」と説明できるが、原一男監督のこの作品は過去形ではなく現在進行系の水俣被害が描かれている。ベッドに横たわる弱々しい被害者の姿から始まるこの映画は、企業や国家の圧力を描き、その傲慢な姿勢に対する怒りを描いている、といえば聞こえはいいのだが単にそれだけではない。怒りだけで語るなら、そこには『ゆきゆきて神軍』の奥崎謙三が生きているように感じた。
しかし違う。
この映画、実はラブストーリーだったのだ。6時間という長大な時間をかけたラブストーリー。それには編集期間も含め20年の歳月がかかったという。坂本さんのように体を思うように動かせない被害者の愛。生駒さんのように体が不自由になってゆく夫を支えた妻の愛。その愛を演出した別の被害者である川上さんの愛など、この映画は大きな愛に包まれている。その愛も天皇制をにじませてくると趣が変わるのだが・・・
最後の『悶え神』のあたりになるともう涙がとめどなく流れてくる自分を抑えきれなかった。坂本しのぶさんの「恋のジャーニー」。自立したい被害患者の切実な思いは、映画の最後で石牟礼道子氏が「怨」の字ののぼり旗をかざして戦った時代からあまりにも長い時間が流れたことで無力化された。彼女はこれを「悶え神」という言葉でくくる。
登場した原一男監督は丁寧にエピソードを語る。撮影時の苦悩や、被写体となる人物たちのことを丁寧に語る。
そしてひとりひとり丁寧にサインに応じる。
サインには監督の苦悩が書かれていた。悶えているのは監督自身だったのだ。
朝から晩まで過ごしたここを去るとき、このシアターの気配に大きな強さを感じた。悶える作家とそれから何かを学び、誰かに伝えようとする人たち。ここに集い人たちが少なからず大きな力に抗う姿勢で生きていることを信じたい。このままではダメだ。
しかし見上げれば巨大資本が下々の米粒のような我々を見下している。そして弱者はまた引き続き押しつぶされてゆくのだろうか。
(=^・^=)
そしてひとりひとり丁寧にサインに応じる。
サインには監督の苦悩が書かれていた。悶えているのは監督自身だったのだ。
朝から晩まで過ごしたここを去るとき、このシアターの気配に大きな強さを感じた。悶える作家とそれから何かを学び、誰かに伝えようとする人たち。ここに集い人たちが少なからず大きな力に抗う姿勢で生きていることを信じたい。このままではダメだ。
しかし見上げれば巨大資本が下々の米粒のような我々を見下している。そして弱者はまた引き続き押しつぶされてゆくのだろうか。
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