ドライブ・マイ・カー 濱口竜介
濱口竜介監督の作品をこの年末年始に3本ほど鑑賞した。濱口監督は東大卒で芸大でも学び、英語は喋れるし、いかにも国際派として注目されるべきキャリアを持つ。この『ドライブ・マイ・カー』を含め、濱口監督が関わった作品が世界の国際映画祭で注目され、昨年の東京国際映画祭でも特集が組まれるなど、いま最もホットな存在と言えるかもしれない。
あらすじなどは省略するが、濱口監督がなぜこれほど注目されているかを色々な媒体で読んだり聞いたりしてみると、そのひとつが演出方法にあるようだ。この映画の中で示される劇中劇。主人公の演出家(兼俳優)がワークショップを通じて集めた俳優たちに向けて演出する方法は、どうも濱口監督自身と重ねているらしい。抑揚のないセリフなどはまさに濱口流だ。しかしこの抑揚のないセリフは海外でどのように受け止められるのだろうか。俳優がセリフに抑揚をつけないというがんじがらめの状態というと小津安二郎を連想する。小津安二郎の映画に連続する、現実にないような台詞回しなどと濱口作品は似ているような気がする。但し、小津映画のように細かいカットの積み重ねではなく、濱口監督は長回しが多い。これは本人も言っていることだが、日本映画のバジェットでは、小津監督や黒澤明監督の時代のような時間的な制約が異なるので、限られた範囲で効率よく映画を作るための方法論のようだ。
極めて印象的な舞台演出があって、このワークショップには国籍だけでなく、手話でしか表現できない俳優がいる。この折り重なる言語の不確実性は、かつて渋谷で鑑賞した『語りの複数性』にぴったりはまる。映画という総合芸術を日本的に最大限の表現を求めようとするとこうなるのではないか、と思わせる。
この映画が示す混迷こそ、時代を示す。そして時代が混迷を呼び起こす。最後に残るのは孤独だけだ。しかし孤独の中でも理解を示し合う柔らかい信頼関係がこの映画の軸にあるのではなかろうか。
新たな日本映画の”カタチ”を見たような気がする映画だった。
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貼りました。みつけてみてくださいね。