期間限定で開催された『
表現の不自由展』はものものしい厳戒態勢で催された。
早めに場所を確認するために開催場所に赴いたが、驚くことに複数の装甲車やパトカーが動員され、いたるところに警察官が立っている。美術展でこんなことがあっていいのか?ここはいったいどこの国か?と感じる。穏やかではない。

こういうことを政治的に利用する者がいる。
ツイッターなど書き込みを見ると大半が批判的だ。日本はそういう国なんだ、ということを感じ背筋が凍る。もはや大戦前の社会のようだ。身の危険を感じる。

開始時間まで暇をつぶし、暗くなった頃に再度現地へ。何しろこの展示の開催を知ってから予約したが、夜の回しか取れなかった。知人を誘った頃は売り切れだ。ものすごい反響である。入る前に持ち物を検査され探知機ゲートを通る入念に警戒される。入場前に係の方から丁寧な説明を受ける。「
平和の少女像」は写真に撮ることも触ることもできると聞く。

「表現の不自由」を示す展示の最も重要な部分を葬り去ろうとする力が日本に厳然と存在することに驚く。そして強く危険を感じる。この
安世鴻の作品は中国に取り残された
朝鮮人日本軍「
慰安婦」の写真だ。新宿の
ニコンサロンで展示されるはずだったが、作者の許可なく一方的に中止通告を受けた作品だ。この作品の展示を妨げる理由がいったいどこにあるというのだろうか。

この作品、タイトルは「償わなければならないもの」は高校生が描いた
慰安婦問題に対する表現だ。しかし
千葉市長の決定で展示と
補助金の取りやめが決まったらしい。
つまり、これはあいち
トリエンナーレの問題ではないのだ。あいトリのリベンジではない。ずっとこの日本で表現を妨げてきた政治的圧力に対するかすかな表現の場だったのだ。そこに暴力的な
妨害工作が企てられ、官憲が出動して戒厳状態をつくり、ネットの過激な書き込みで揺動するというムーブメントは、まさにかつて日本が戦争に向かった頃の状態なのではないか。展示側も演出を施しているが、妨害する側は国家権力を背景により強い力で圧力をかけてくる。


前山忠のこの作品は、作品の近くに設置された「カンパ入れ」が問題だとして撤去を求められた作品の再現だ。1971年のことらしい。これもまた日本が
後進国であることを示す事例だ。そしてこうした様々な不自由が集結した2019年のあいち
トリエンナーレに結実し、その大きな力に対し政治はさらなる大きな力で圧力をかけてきている。

自分も最初この少女像を見た時、必ずしもいい気持ちはしなかった。しかし作者の意図を汲めば、この作品に反感を持つ自分の心と向かい合うことができる。先人が行ってきた行為と、ほかの国でも同様の事例があることなどを踏まえ、なぜ隣国でここまで
慰安婦問題が尾を引くのか?そしてこの作品のタイトルを見る。「平和の少女像」。平和に対する提案なのだ、これは。それを自分は素直に受け入れる。日本人としてこの像が、例えば日本のあちこちに設置されて気持ちがいい人はいないだろう。しかしそこに存在することで、この歴史を忘れない、という心理により抑止的な空気を生むのではないかと思う。人はときに傲慢だ。誰にもある傲慢な気持ちを鎮めるため、こうした作品は平和のために必要なのではないかと思う。これは
慰安婦ではなく平和像なのだ。
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貼りました。みつけてみてくださいね。

