表現の不自由展④ マネキンフラッシュモブ
そろそろ最後にしよう。「もう終わりにしよう」
フラッシュモブの話題で終わる。
彼らのパフォーマンスは笑わない(バスター・キートンのようだ)、動かない、しゃべらない。海老名駅の自由通路で行われたパフォーマンスを行政が違法だと主張するので、彼らは裁判で勝訴し、行政側を突き倒した。彼ら行政も見えないものは違反だと思い込む。見たことも聞いたこともないものやことに対応できない。
「平和の少女像」 やTPP問題などについても同じ活動をしていて興味をそそる。
こうした彼らの活動もまた、権利を守ることに通じている。
そしてありとあらゆる表現があって、対立意見であっても認め合うという文化や国民性を築き上げないと、いつまでもあるべき論の原理主義的な対立でお互いが傷ついていくだけだ。
なんども言うが、自分はこの国が好きだ。そしてこの国を守りたいと思う。しかしそのために対立軸を作って黒いものを白く塗り替えたり、存在を透明にして消し去ったりすることは本位ではない。この少女像でさえ、最初見たときは気持ちがぐらついたが、下品などこかの市長のおかげで、まるで違う存在に思えてきた。特に日本人は見たこともないものを嫌悪する。
どんなものでも初めて見るものは異質だ。しかしそれをじっくり見つめればそれぞれに意味がある。今回の展示で過激な暴力行為があるとしたら、それは「無知」がもたらす悲しい行為である。これらの展示を嫌うことを否定はしないしその考えは尊重する。しかし過激な思想やテロ行為などの暴力で、何もなかったように消し去ろうとする傲慢な姿勢だけはいかがなものかと思う。とても残念に思う。
昭和天皇をデフォルメしたこれらの作品だって、個人的には必ずしも気持ちがいいとは思えない。しかしその存在を認めることで、自分とつくり手の変化を感じるものだと思う。どんな考えや思想や表現も消し去ることはできないのだ。
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貼りました。みつけてみてくださいね。