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しょうもない

ジョーカー(2019)

★明と暗の境界線

1、70年代の再現
 この映画の設定は、おそらく間違いなく1970年代、ブロンクスあたりのスラムを再現している。今は当時のようなスラムではないと聞くが、のちのニューヨーク市長がブロークンウィンドウ理論を導入し、壊されたり落書きされたらすぐに修理する、という施策に莫大な予算をつぎ込み、見違えるように街がきれいになったという。その前の下町をゴッサムシティに置き換えている。何しろ先日亡くなったジンジャー・ベイカーを擁するクリームの「ホワイト・ルーム」が奏でられた瞬間、暴徒化する街の光景と音楽が巧みにクロスして50歳代後半の我々を興奮させる。あのラスト近くの喧騒と音楽のバランスが素晴らしい。
 アーサーがピエロの姿で踊るポーズも、実はドアーズのジム・モリソンのパフォーマンスを真似ており、『地獄の黙示録』でドアーズの「ジ・エンド」をバックにウィラードが踊るシーンと重ねている。つまり、1970年代というと、ベトナム戦争末期で、明らかにアメリカが敗北したときの国内情勢がこの映画のバックヤードになっているのである。
 アーサーが母親とともに憧れるマレー・フランクリンはロバート・デ・ニーロが演じている。もちろんここで彼が扮する役は『キング・オブ・コメディ』の焼き増しではあるが、1970年代を過ごした我々にとって、デ・ニーロは『タクシードライバー』であり『デュア・ハンター』である。特に『タクシードライバー』のトラヴィスはこの映画のアーサーそのものだ。あの映画で『シェーン』を気取ったトラヴィス(デ・ニーロ)は大統領候補を殺すために銃を隠し持つ。そして殺しに行く寸前に阻止されて、ジョディー・フォスター演じる娼婦の元締めを殺して英雄になる。そう、まさにこの『ジョーカー』という映画は『タクシードライバー』をモチーフにしているのだ。犯罪者と英雄の境界線。この映画の片側のテーマだ。それにしてもかつて体制側に反抗する存在であったデ・ニーロが、この映画ではすっかり保守的な立場となってジョーカーに殺されるというのは皮肉だ。もちろん作者が狙ってこのようなキャスティングをしているのだが、時代とともに演じる役も大きくシフトするものだ。ゲイリー・オールドマンなどにも似たような感覚を覚える。『レオン』の悪徳警官がチャーチルを演じる。そして『バットマン』シリーズでは刑事役だ。

 

2、善と悪の境界線

 主人公のアーサーが『ジョーカー』として生きてゆく境界線があるとしたら、電車の中で女性にいたずらしようとする3人の会社員を銃殺したことだろう。なんとこれがきっかけで彼は英雄になってゆく。ジョーカーと同じ面をした貧困にあえぐ人々が暴徒化するのだ。ここで彼は貧しき人々の英雄となる。

 かつて黒澤明監督が、戦後の名作を作るときに、善悪の役割を明確にして、勧善懲悪のわかりやすい映画を作ってヒットさせた。『野良犬』や『酔いどれ天使』、『七人の侍』に至るまで善と悪の明確に分けて、徹底的に悪を懲らしめるという映画を『天国と地獄』の前まで作り続けた。この中で語られることは、誰にも悪に転落するきっかけはあった。しかしそれを踏みとどまって社会倫理が保たれている、という前提で黒澤イズムは語られてきた。しかしどうもここ30年で世界と日本の倫理観は大きく変化したようだ。特に家族の在り方については都市部の人間関係が薄れ、貧富の格差が広がり、善と悪のよりどころが見えにくくなった。この『ジョーカー』という映画ではむしろ、貧困から派生する犯罪を生み出したのはウェインだ、と断じているようにも見える。

 

3、悲劇と喜劇の境界線

 もうひつとのテーマは喜劇と悲劇の境界線だ。チャップリンが残した言葉に「近くで見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇になる。」という言葉は、この映画の『モダン・タイムズ』のシーンではっきりと主張されている。貧しくて仕事もうまくいかず、病気の母親の薬代すら工面でにないのに、自身も精神病で投薬している。ついに薬が切れて彼の内面にあるブレーキが破壊され、ブルース・ウェインの父親で大富豪のトーマス・ウェインを殺害するのだ。このきっかけは、母親とトーマスの間に生まれた私生児が自分だと誤認して、本人に父親であることを認めさせようとして殴られる。余談だがここは『ロケットマン』が重なる。父親不在が生み出すトランスジェンダーの傾向は、いままさに世界を揺るがしていることだ。アメリカの古き良き家族の在り方は、少なくともこの映画の実舞台である1970年代から崩壊が始まっていた。ジョーカーが父親という存在を失い、母親を殺し、失うものがなくなって彼の運命は決するのだ。

 失うもののなくなったジョーカーはデ・ニーロ扮するコメディアン、レニー・フランクリンのテレビショーに招かれたことをきっかけに、レニーを撃ち殺す。衝撃的なシーンだ。

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4、境界線を作り出すもの

 アーサーがこの映画の前半で何をやってもうまくいかず、貧困の中で苦しみ続けるシーンを延々と見せつけるが、父親と思っていたトーマス・ウェインに殴られて犯罪者の英雄となることを決意する。これはまさに富が貧困を生み、犯罪を拡大させるというジレンマそのものではないか。

 そして貧しき人々には家族とのつながりを維持することもできない。恋愛もできない。要するに何もできないのだ。何もできない者が前に進むには、自らの死を選ぶか犯罪に手を染めるしかない。この映画はその意味で、かつての『バットマン』トリロジーを全面否定している映画となっている。富が生み出す犯罪。

 思えば隣国、香港で続く暴徒的なデモやフランスのデモ、果ては様々な国で繰り広げられるテロの恐怖。こうした現状は、全て富が生産し拡大させていったものなのだ。そしてこれらを武力(力)で押さえつけるには金がかかる。富の側はそのことを熟知していて銃器や兵器を世界中にばらまいて金儲けをし、ますます貧困と犯罪を拡大再生産して富を増やしているのである。

5、最後に

 ホアキン・フェニックスの泣き笑い演技に圧倒された。スクリーンに釘付けとなるシーンはいくつもあったが、ジョーカーという名前を象徴するように彼の内面から浮き出すあの笑い。精神病という設定なのだが、そのあまりにもリアルな笑いに、見ている側は笑えなくなる。そして彼の苦しみがいつしか伝わり、ジョーカーの犯罪性に同期してゆくのだ。

 地下鉄で3人を殺すきっかけとなる笑いのシーンは特にすごかった。

 同じアパートに住むソフィーとエレベーターですれ違ったとき、手で銃を頭に打ち込むポーズがあるが、あれはロバート・デ・ニーロが『タクシードライバー』で演じたシーンを重ねている。

 繰り返すが、この映画が70年代を再現した背景には、世界経済がいよいよ行き詰まりを見せており、あの時代のような不穏な戦争の匂いが漂うことへの恐怖をにじませている。テロや暴動などが各地で展開される先に、何が待ち受けているかは歴史が物語るのではないか。

 ヴェネチア映画祭でこの作品が受賞したのもうなずける。フランスをはじめEU諸国は貧富の格差にあえいでいる。失業者の群れがテロとなる危険を常にはらんだきわどい状態の社会だ。こうした現実をフィクションとして仕立てている作者の巧妙な手法は見事だ。映画表現としてギリギリの政権批判をしている。

真実 (是枝裕和監督)

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★真実はない、ウソだらけ

 是枝裕和監督のテースト満載の映画だった。冒頭の美しい秋の木々が広がる中に小さな一枚の緑色の葉が残っている。この緑の葉こそ、主人公のファビエンヌ。老いてなお女優として活躍する彼女の姿は、枯れた葉の中に残る一枚の緑の葉そのものだ。
 ジュリエット・ビノシュ演じる娘は大女優のもとに育ち今は脚本家。夫は二流俳優で主演がない。主演が取れるまで禁酒している。小さな孫娘シャルロット。是枝作品で何度も繰り返し示される子供の辛辣さは、この映画のラストで示される。
 ファビエンヌの屋敷には大きなウミガメがいて、この家を出て行った父親のピエールの名前がつけられる。
 この映画には二人の亡霊が現れる。一人はサラというすでに亡くなったファビエンヌに影響を与えた女性。ここではおばとされているが、あまり詳しいことは語られない。娘のリュミエールが母親に憎しみを感じているのに対し、サラに対するやさしさに母親以上の愛情を感じている。このサラという女性がファビエンヌの新作で共演する若い人気女優マノンに乗り移る。セリフも音も全く遮断されるシーンが一か所ある。このシーンがサラの亡霊を呼び起こすシーンと感じさせる。そしてもう一人の亡霊がウミガメだ。ひげ面の浮浪者が家に帰ってくると、庭にいたはずのウミガメがいない。これもまた亡霊だ。それはエディプスコンプレックスを匂わせる父親像の不在。この映画はいわば女性同士の戦いのドラマだ。その戦いの中で男の存在は無力で、ファビエンヌの執事や料理人も添え物だ。娘のリュミエールの夫(イーサン・ホーク)ですら存在感がない。
 ここに存在した片方の亡霊”サラ”の存在をめぐり、延々と母娘の対立が時に厳しく時にコミカルの描かれる。ファビエンヌの毒舌に彼女の性格と彼女が浮名を連ねた歴史が示される。役を獲得するために私生活を殺してまでも意思を通す。自分の女優としての存在を勝ち取るためなら自分以外の人のどんな犠牲もいとわない強さ。弱肉強食の業界で勝ち残るための処世術を彼女はすべて備えているのだ。
 この映画に感動的なシーンがあるとすると、最後に母娘が和解するシーンだ。しかしこのシーンも実は自分の演技のための作り話で、心にもないことを口にすることで、より高いレベルの演技を自分に強要しよとする。このあたりの表現はいかにも是枝イズムだ。感動を単純化しないシニカルさ。コメディと悲劇が表裏の関係にあることをこの監督は熟知している。『誰も知らない』の前半と後半で、まるで違う映画にしたあの才能は今も生かされているようだ。
 この映画では映画の中に映画撮影が演出され、ことさら劇中劇のような展開が面白い。映画の中で大女優のファビエンヌを演出する若い映画監督は、おそらく是枝監督自身であろう。このように登場する人物の人物像を並べると、誰もがウソをついていることに気づく。そのウソをウソと自覚もせずに女優として生き続けるファビエンヌこそ最も大ウソつきだ。そして彼女は自らがウソをついていることすら気づいていない。一度家を離れた執事ですらウソをついていて、再びこの家に帰ってくる。このようなウソが塗り重ねられた最後に孫娘が「それって真実なの?」と母親に問いかける。これがこの映画のテーマだった。
 思えば是枝作品が一貫して描く”ウソ”。どの作品にも”ウソ”が存在し、その”ウソ”をめぐってドラマが展開してゆく。彼がもともとドキュメンタリー出身であることと、このウソを主軸とするドラマを描き続けることに矛盾を感じるかもしれないが、「事実は小説より奇なり」ということわざが示すとおり、カメラを通して受け取る映像はたとえドキュメンタリーであってもウソがあるということを是枝監督が自覚しているからこそ、このような大胆な切り口でドラマを展開できるのではなかろうか。
 思えば、是枝監督自身が研究した大島渚監督や今村昌平監督らも、ドキュメンタリーが背後にある。ドキュメンタリーだから真実なのではなく、むしろドキュメンタリーこそドラマとしてのウソを織り交ぜていることを理解したうえで、素晴らしい映画作品を撮り重ねてきたのである。大島渚監督は奇しくも『マックス・モン・アムール』でフランス映画に挑戦した。是枝監督が大島渚監督を意識したことは暗に想像できる。また、今村昌平監督の『人間蒸発』こそ、ドキュメンタリーを語る上で欠かせないドラマ性がある。

 

 

 シャネルとイブ・サンローランのモデル(ミューズ)としてファッションアイコンだった。そして『ラ・ラ・ランド』が『シェルブールの雨傘』をイメージする。二人が結ばれないという切ない映画。
 是枝監督曰く、ドヌーヴさんは撮影当日、全くセリフが入っていなかったらしい。ファビエンヌはドヌーヴさんのミドルネームなんだそうだ。この映画の企画を持ち込んだのはジュリエット・ビノシュだったそうだ。
 

エクソシストを見なおした

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エクソシスト』ディレクターズカット版を見なおした。

これは現代の若者と子を持つ親、あるいは教師などが見なおすべき映画だった。

この映画の主題は「心の隙間」である。

父親不在で母親(女優)も忙しい娘リーガン。

そして母親を亡くして心の傷が癒えないカラス神父だ。

もしかするとやたらと映画に誘うキンダーマン警部(リー・J・コッブ)も寂しい人物かもしれない。

 

これ、現代病である。

核家族化が世界経済に莫大な影響を及ぼしたおかげで、家族の絆が失われ孤独(弧族)が広がり”甘え”が許されない社会。(「甘えの構造」)孤独な人々の心の隙間に悪魔が棲みつくのである。

 

それに対峙するのがマリン神父(マックス・フォン・シドー)。実は悪魔がマリン神父を呼び寄せ、対決する意思を示すシーンがある。(テープを逆回転するシーン)この時点で悪魔はマリン神父に勝利した。

 

なんということだろう。

 

こんなに現代病を如実に示した映画が当時存在したとは!

アルコールやドラックやゲームやスマホ、ぞれぞれに依存する人々は内面の心を喪失している。

 

オカルト、という怖さではなく、人の内面に棲む怖さである。

リリー・ジェームスの魅力 Lily James

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昨日見た「イエスタデイ」があまりにもよくて、そしてなんといってもリリー・ジェームスさんが素晴らしいわけである。

彼女はかつて実写版「シンデレラ」(ケネス・ブラナー監督)に抜擢されている。ディズニーのアニメを実写化するシリーズの初期作品だが、この時はあまり印象がない。

その後ブラッドリー・クーパー主演の「二つ星の料理人」という映画にも出ているが記憶がない。

彼女の鮮烈な印象はやはり「ベイビー・ドライバー」のウェイトレス役だろう。運び屋の若いドライバーにどんどん惹かれてゆく。あのイメージ。

その後の映画はすべて映画館で鑑賞。

ウィンストン・チャーチルの秘書役。

マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー

ガーンジー島の読書会の秘密

そしてイエスタデイだ。

 

必ずしも絶世の美女というわけではない。そして演技がずば抜けてうまいとかいうわけでもない。それでも彼女の魅力的な演技、そして存在感は映画全体をわかりやすくしてくれる。「イエスタデイ」でも、ずっと売れないシンガー支えてきたのに突然メジャーになってしまう。そして次々と作られる楽曲の人物に自分が投影されていない寂しさを上手に演じている。屈託のない彼女の演技に胸が締め付けられるようだ。

 

これからの彼女の活躍に大いに期待したい。

日本映画興行成績に思う

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町山智弘さんが「アパートの鍵貸します」の解説をされている映像を拝見した。

その中でビリー・ワイルダーがハリウッドの映画システムで予定された映像をムダなくきっちり撮りきる、という映画監督だったことを教わる。

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話題を変えるが、例えば黒澤明監督などは入念なリハーサルで俳優に演じる人物そのものになりきらせて、複数のカメラで俳優を捉える。そして偶然に生じたシナリオにない演技やシーンを採用することが時々あったと聞く。「天国と地獄」の山崎努さんが演じるラスト。面会室に漂うとてつもない緊張。山崎努さん演じる犯人が金網に手をかけて絶叫する。シナリオにはこの後のワンシーンが予定されていたそうだが、映画は山崎努さんの絶叫を残し、三船敏郎さんの顔が面会室の鏡に映されて終わる。衝撃的なラストだ。

その後ヌーベルバーグなどの影響で、映画はスタジオを飛び出しロケ中心になる。今でこそ映画はフィルム撮影をしなくなったが、当時は大きなカメラを背負ってロケーションすることがどれだけ大変だったことか。

しかし町山智弘さんは、映画がロケからスタジオに回帰しているという。それはアニメーションやSFXをさす。

確かに今年の映画興行を見ても、上位10作品のうちアニメやSFX系ではない映画は1本ぐらいだ。「天気の子」から始まって「アラジン」や「トイストーリー4」と、いずれもアニメかCGである。

ビリー・ワイルダーはもともと毒のある暗い映画を撮る監督だったが、それは彼がユダヤ人で母親をアウシュビッツで殺された記憶があるからだそうだ。そして「アパートの鍵貸します」では、キューバカストロ共産主義者)をほのめかしつつ、資本主義社会の奴隷的な部分をこの映画で表現しようとしたという。そして冒頭のシーンはキング・ヴィダーの「群衆」を真似ている。

アニメーターの仕事がどれほど厳しい仕事か、という噂を聞くと、大きな映画システムの中できっちり仕事をするという行為の主従関係は奴隷制度にも近いかもしれない。

映画興行で大ヒットをする向こうには、どれほどの汗と涙がこぼれているかを想像してしまう。

(=^・^=)

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さよならテレビ (東海テレビ)

ドキュメンタリーの歴史でいえば、日本映画では大部屋が存在した映画会社がすべてを製作していた時代を経て、テレビの供給とともに広がってきた。大資本から解き放たれた金のない才能のあるアーチストがドキュメンタリーに進む。今村昌平大島渚、最近だと是枝裕和がそうだ。彼らはもともと資本を後ろ盾としない、金のない才能あるアーチストである。

『人間蒸発』の衝撃、『忘れらた皇軍』の苦痛、これらは『ゆきゆきて神軍』や『全身小説家』などへと向かう。『誰も知らない』はドキュメンタリーではないが、是枝裕和監督のその後のタッチはここで生まれる。リアリティという非現実。

この『さよならテレビ』は、業界関係者で裏ビデオ的に拡散し、ついに来年ミニシアターを中心に劇場公開が決まったそうだ。東海テレビのドキュメンタリーというと、『人生フルーツ』が素晴らしかったが、これが長編ドキュメンタリーの12作目だそうで、テレビで放映されたものが”あいちトリエンナーレ”で劇場用に上映された。

 

話しは簡単で、テレビ局にテレビカメラとマイクを取り付ける、というだけだ。しかしそこから見えるテレビ局の内部はいかにも醜悪で、結局テレビ番組もスポンサーありきだといことで、局の上層部はひたすら数字を追い求める。そこに働き方改革の波が押し寄せて残業抑制が命ぜられる。数字は上げろ、しかし仕事はするな、というわけだ。

 

ここに3人の男性がドラマを構成する。一人は社会部記者で成功経験の薄い中年沢村。会社や体制に批判的だ。派遣社員の渡辺君はセンスの足りないドジ社員という印象。彼は結局1年で解雇となる。そしてアナウンサーの福島。福島キャスター中心で番組が作られてゆくが、結局彼も視聴率が稼げず番組の中央から降ろされる。いずれも負け犬である。この三人が直面するのは、テレビ局が抱える矛盾であり、過去に犯した放送事故のトラウマだ。こうしたジレンマに記者の沢村は会社を批判し、福島キャスターは安全運転でリスクを取らず、渡辺君はただただ失敗を繰り返す。

 

福島キャスターが、よりよい番組を作ろうと努めれば努めるほど、ミスや事故は続き視聴率は上がらない。そんな中、「不完全なロボット」の研究所を訪れて彼は解き放たれる。完全なミスのない朗読は印象に残らず、どじったりしたほうが人間味があって好印象を与えるという話しを聞いて開眼する。

 

しかしこうした話の最後に『人間蒸発』級にどんでん返しが待っている。実はこのドキュメンタリー制作にあたり、この三人は事前にターゲットとなっていて、仕込みが隠されていた。そのことを最後に示すことで、この映画の真実味が一定程度確保されている。

 

つまりこれらはフェイクである。

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もう自分はテレビも新聞も読まず、マスメディアを全く信じていない。その意味ではこの映画ですら茶番だと思う。幼い頃からテレビが当たり前にあって、チャンネルをひねればなんでも見ることができた。しかし時代はもはやテレビの時代ではない。メディアの立ち位置もすべて変化した。その中でこの映画は、映画としての役割をある程度果たしているように見える。もうテレビの時代は終わった、というテーマが映画として成立させているのである。

エイス・グレード Eighth Grade

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8年生、という感じでしょうか。13歳。小学生でもあり中学生でもあり、大人ではないけど子供というにはぽっしゃりしている。主人公の彼女がすごくかわいい。そしてなんとなく冒頭のシーンからずっと漂う孤独感。必ずしもさわやかな映画とも言えず、かといって暗い映画では全然ない。むしろカラッとした感じ。しかし中身を掘り下げると、銃乱射事件やセックスやいじめや格差、あるいは家族の崩壊などを暗示する。

この少女のうざい父親が映画に善意をもたらそうとするが、そのやさしさがこの少女には迷惑だったりする。もう自分がこの少女と同じ時代はおろか、自分の子供の世代すらも超越してしまうと、まるでこの少女のことがわからない。しかしこの映画にはそうした見えない現実をしっかりと背景に映し出している。

口コミで拡散した映画。ユーチューバーがこれほどの影響力を持つことの現実。彼女がユーチューブに語りかけるメッセージは誰も読まない。この寂しさを誰もが抱える孤独としてうまく表現している。感動的だった。