貧困の受け入れ先
『酔いどれ天使』や『用心棒』などでヤクザの世界を描いた黒澤明監督は、常々「ヤクザは大嫌いだ!」と述べていた。ヒューマニズムの立場から作られる多くの映画は極めて面白く倫理的で道徳的でもあるが、しかしながらときとして貧しさや格差に対する表現に対する批判も集まった。『天国と地獄』の竹内という誘拐犯(山崎努さんが好演)を刑事(仲代達矢さん)が追いかけるが、死刑にするまで犯罪を誘導する、というのはさすがにいきすぎのような気もする。『七人の侍』の農民の卑屈な描き方に対しても同じような批判が集中したようだ。
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自分は平凡な家庭に育ち、平凡の老いに近づく程度の凡庸な者だが、黒澤明作品の大ファンだった立場から、これらの批判はイチャモンだと思っていた。純粋に楽しければいい。正義は常に正しい。悪は悪だ。ドラマの強さ、人物描写の強さなど、どの映画にも黒澤明監督の意思が示され、見る者を納得させる。それでいいのだと思っていた。
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しかし、
先日あるヤクザを扱った動画を鑑賞して、ヤクザの顧問弁護士のあまりにも紳士的な対応とその言葉の重みに自らのこれまでの偏見に気づく。遅すぎたかもしれない。
世の中には貧困が存在する。
黒澤明監督の『野良犬』にもある通り、戦後の貧しさから刑事になった男(三船敏郎)と犯罪者になった男(木村功)の対決シーンに興奮する映画なのだが、ここでいみじくも刑事に捉えられて慟哭する犯人は、”戦争による貧困が生み出した”ものだ。
ヤクザ組織や繁華街はどんな人も受け入れる。貧しくても過去に傷があっても、まずはその人物を受け入れる。その個性的な人物を追いかける歌舞伎町のカメラマンが元ヤクザだった指のない居酒屋の店主を追う。その陽気で知性的な語りに耳を傾ける。あるいは、かつてここ(歌舞伎町)の残飯を食べダンボールで生活していた人物を追う。衝撃だった。
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ヤクザの構成員のほとんどが貧しさを受け入れられた者たちで被階級層なのだ。貧しく孤独な彼らをヤクザは優しく受け入れる。そして彼らを生み出したのが、資本主義であり自由主義であり民主主義であることのジレンマに歯がゆさを覚える。黒澤映画が評価されたのも高度成長という裏付けがあったからで、時代がデフレにシフトして格差が大きくなれば、見る人によって映画の価値は変わる。いま貧しき人々が黒澤映画を見て納得するのかどうか?
その傍らで貧困がヤクザや浮浪者を生む。そして彼らを生み出す元凶が何なのか?という相関を考えると衝撃が走る。自分はどうなのだろうとも思う。
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