その前に・・・
TIFFに昨年創設された「
大島渚賞」の受賞作が、今年は「該当なし」だった、という極めて正しい対応をされた審査員の皆さんに敬意を示したい。
このブログでも何度か書いているが、もう日本映画は終わった。まだテレビが普及して観客が映画館から離れていった1970年代以降のほうがマシだ。
大島渚がなかなか映画を撮れずに苦しんだ1970年代から、映画業界斜陽の時期。そして現代へとくると、もう日本映画に価値はない。
キネ旬ベストテンもろくな作品はない。これらの文脈の先に「該当なし」が結果として示されるのだ。
そういう思いを抱きつつ、この『忘れられた
皇軍』というドキュメンタリーを見て息苦しくなってくる。

この映画のことを
大島渚が「
イメージフォーラム」という雑誌の自伝的な寄稿の中で、「カメラがもっと寄れ」と言っていた。日本のため、
天皇陛下のために戦った
在日韓国人。目も見えない、腕も足もない、そんな彼らが補償を求めて国に詰め寄る。目の前を
吉田茂が素通りする。しかし日本政府は彼らが日本人ではないとして韓国大使館を訪ねるように伝える。しかし韓国大使館もまた「あなたたちは日本のために戦ったのだから、日本から補償を受けるべきだ」と追い返される。彼らは存在のない者として社会から捨て置かれるのだ。『存在のない子供たち』という
レバノン映画があったが、あれもテーマは同じだ。

街頭演説をした帰りに仲間となけなしの金で酒をのみ、そのうち大喧嘩になる。そして行き場を失った怒りにまかせて、目の見えない瞼からぼろぼろと涙を流すのだ。

小松方正のナレーションで「彼らを直視できるか!」と絶叫する。このときのことを
大島渚が書いていて、さすがに気の毒な彼らにカメラマンが怖気づいて尻込みするところを、大島がカメラマンの尻を蹴飛ばして、「カメラがもっと寄れ」と怒鳴った、というエピソードを紹介している。カメラはときに人物だけでなく、その人の人生そのもを映し出すときがある。この映画はそうした側面をも我々に伝えようとしているように思える。
このような映画を目の当たりにすると、戦うことを避けて映画を作る予定調和で平和的な結末を描こうとばかりする愚かで平和ボケした日本映画の末路を心苦しく思う。
何度も言うが、もう日本映画をおしまいだ。それは日本人がすべて政治によって骨抜きにされたことを意味する。日本映画の終焉は、日本の崩壊を示しているのである。
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