クイーンズ・ギャンビット
あらずじなどはともかく、思いつきでこのドラマの背負っている主題を並べると、
1、ドラッグやアルコールなど依存症
2、孤独(死)
こう並べれば、アメリカの社会全体が抱える問題を扱っているのは明らかだ。そして時代を1967年頃を軸にすることで、人種差別の問題や背景にある戦争(ここでは冷戦)の問題を扱っている。
母親の自殺(車の衝突)に巻き込まれて生き残ってしまった孤児(孤独)であることが、この主人公を絶えず苦しめる。そして親から授かったギフテッドでチェスに天才的な才能を発揮する。そのきっかけがこの用務員である。この無愛想な用務員のシャイベルさんは、最初のわずかのシーンしか姿を表さないが、主人公のベスを支える。シャイベルさんのベスに対する思いは、最終話にも出てくるのだが、ここは涙なくして見ることができない。登場する機会は少ないが、最後の最後まで彼女を支える。シャイベルさんの格言に「才能の代償」というセリフがある。才能で得られたものの裏側には大きな代償があることをシャイベルさんは幼いベスに伝える。
ここまでで感じるのは、サン・テグジュペリの『星の王子さま』だ。本当のことは目に見えない。用務員のシャイベルさんも継母のアルマさんも、最初はベスにとって必ずしも”いい人”ではない。孤児院で仲良しだったジョリーンもそうだ。しかし、ベスの活躍に彼らは最後に力を貸してくれる。真実を見極める、ということもまたこのドラマのテーマだと感じる。
ほかにも彼女を支える多くの人物は、彼女の健気で一途なチェスに対する姿勢に惹かれてゆく。頑なな姿勢は時に衝突を起こす。そして彼女に近づく人たちは次々に振り払われてゆく。最後にこの映画が米ソ冷戦構造を前面にした戦いに発展する過程で、自由主義で個人任せのアメリカと、組織で対応する共産主義のソビエトを対比させてゆくのだが、実は最後の最後に素晴らしい感動が待ち受けている。(ネタバレになるのでこれ以上書けない。書いてもいいけど。)
確実に世界はグローバル化を後退させている。ポピュリズムとコミュニズムがひとつのベクトルで語られようとする世界の趨勢を思うと、この映画の最後、ベスが敵国で大喝采で称賛され、下町の路上でチェスをするロシア人の前に現れて対局するシーンの意味を深く考える。孤独で自らが依存症に陥り、チェスで勝つためだけに傷つき青春を捧げた少女が、冷戦状態の敵国で市井の市民と重なる。
果たして我々の身近にも、同じような境遇の方がいるはずだ。個人的には日本バドミントン代表監督の朴柱奉先生。彼は韓国でスーパースター、否世界のスーパースターという立場を超え、長年に亘り日本代表監督として、日本人選手を世界のトップレベルにまで押し上げた。海峡を超えた彼の姿勢は、隣国の国民にも評価される。心から尊敬できる偉大な人物。
この文脈で軽々にクイーンズ・ギャンビットの続編でベスがロシア(あるいは第三国)で後進を指導する、という物語には繋がるまいが、世界の分断が政治家のプライドだけで起きていることを憂う材料としては十分だ。1960年代を舞台にしたこのドラマのベス・ハーモンが、この後どうなるのか?をボビー・フィッシャーとは別の選択肢で想像するのも悪くない。
チェスの対決シーンはアクション映画のような興奮がある。ドラマの真意と映像の迫力に圧倒される。後半の盛り上げ方は『ドラゴンボール』や『サマーウォーズ』、あるいは中国アニメの『ロシャオヘイセンキ』を連想させて素晴らしかった。
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