華氏451度 ブラッドベリ
レイ・ブラッドベリの”Fahrenheit 451”初めて読んだ。フランソワ・トリュフォーによって映画化までされた有名小説。個人的にはマイケル・ムーアのドキュメンタリーが連想される。ほかにも何度かドラマ化されているようだが、仔細は省略する。『華氏451度』(1953年)
主人公は消防士、ではなく”昇火士”である。書物が禁じられた社会で、本を隠し持っている家を家ごと燃やしてしまう仕事である。タイトルの451度とは、紙が燃える温度のことを言うらしい。そんな主人公ガイ・モンターグがある日クラリスという17歳の少女と出会う。彼女は「遠い昔”ファイアマン”というと、火を消すのが仕事だったんですって?」
この一言にモンターグが無意識に惑わされてゆくドラマである。別の日に会ったクラリスが「伯父の話だと、絵は物や人の姿を描いていたそうよ。」
そんなクラリスがある日こつ然と消えてしまう。そこからモンターグの混乱が深くなってゆくという話。本を燃やす、かつてナチスが焚書をしたり、発禁処分となった図書があったり、映画だったら『愛のコリーダ』、最近だとある地方都市の長の一言で表現を閉ざされたアート作品、「表現の不自由」。ちなみにこの地方都市の長は最近、金メダルをかじっていた人だ。
主人公のモンターグは自分の仕事に疑問を抱き、隊長に追われながら、町外れの村へたどり着く。そこにいる老人たちとの会話から、かつて存在した本などのことが明らかになってくる。仕事で本を焼き尽くしてきたモンターグの意識が大きく変化してゆく。しかし当局は猟犬ロボットを使って指名手配中のモンターグを追いかける。
並行して世界で大きな戦争が再び勃発する。そして話は、混乱に混乱を重ねてラストへと続いていくのだが、モンターグが出会ったフェーバー教授とその仲間との会話で様々な哲学的な話が重ねられてゆく。
「必要なものは本ではない。本の中にあったものだ。」
「テレビは人を望み通りのかたちに育て上げてしまう。」
「本は、我々が愚か者かを気づかせてくれる。」
「本はとんでもない裏切り者にもなるんだぞ。」
こうした会話を経て、最後の最後にたどり着くのは・・・?
これは驚くことに先ごろ読んだオーウェルの『1984年』にも重なるデストピアものであった。そしてこの本だけでなく、今となってはあらゆるメディア、SNSなどのことをこの作品は示している。これらの情報管制には必ず戦争という大義が見え隠れする。
「本を表紙で判断してはいかんぞ。」というセリフにもまた重たい現実をにじませる。
本を焼き尽くす、という反対側に現代のネット社会が置くと、この小説の先見性をも感じさせる。本は不要、テレビとネットだけ、という社会になったらどうなるだろう。それこそ帝国主義的な文民統制社会が来るのではないか。ネットの渦の中で我々はもう帝国主義的な社会に埋没していないだろうか?
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