黒澤明のライフワーク 河村光彦氏
黒澤明作品について書き出すとスペースがいくらあっても足りないので、ここでは『乱』にまつわる自分の記憶の、そのまたごく一部を紹介しつつ、この作品と関係者の方のメッセージなどを最後に紹介したいと思う。
話は『影武者』に遡る。
1976年『デルス・ウザーラ』を撮り終えた黒澤明は、次に『乱』の脚本を書き上げるが、スケールが大きすぎて金が集まらず、『影武者』を製作すると発表。主役交代劇から始まって、撮影中のエピソードがNHKのドキュメンタリーで紹介されるなど、話題が話題を呼んで、カンヌ映画祭や本場アメリカのアカデミー賞で受賞するなどを経て、この映画は興行的にも当時の歴代最高記録を更新する大ヒット作となる。(個人的に『影武者』は傑出したコメディだと思っている。)
大昔、画家を目指した自分は、アサヒグラフに掲載されたこの映画の絵コンテを穴が開くほど何度も見た。
黒澤作品は当時すでに日本の単独資本で製作できる環境になく、そのスケールの大きさに二の足を踏む日本のだらしない映画会社をよそに、世界のクロサワファンである映画関係者が彼を支え、『影武者』の大ヒットを経て、いよいよ『乱』の製作に突入する。しかしそれでも出資者はなかなか集まらず、最終的にこの映画はセルジュ・シルベルマンが製作する日仏合作映画として撮影がスタートした。
と、このあたりのことは多くの本やウィキペディアなどでも詳細に確認するこができるのだが、この映画は脚本段階からそのストーリーはほぼ公開され、中でも絵コンテ集が先に販売されたため、そちらを何度も見る日々が自分にとっての記憶だ。秀虎のキャラや狂阿弥やその他の武将たちの表情などをみてキャスティングを楽しみにした。また、それまで触れることがなかったシェイクスピアも読むようになるなど、黒澤作品を経て得た情報は数限りない。
さらに、映画雑誌などにこの映画の撮影現場情報が逐一報告され、もう映画が出来上がる前に、自分のイメージは出来上がっていた。中でも原田美枝子さん演じる楓、この役の存在が自分にとっては強烈なイメージとして残っている。二郎をたぶらかすシーン。二郎を振り袖で羽交い締めにして脇差しでクビを切りつけ、流れる血を舐める。ことが終わった後、目の前の蛾を捻り潰す傍らで泣き真似をする。この一連のシーンに背筋がざわめく思いがして、おおいに感動した。自分にとってこの映画は、一にも二にもこのシーンに尽きる。
さて、本題のドキュメンタリー(50分版)になるが、その映像の向こうには、主役の黒澤明はもちろんだが、当時のカメラマンである中井朝一さんや斎藤孝雄さんらのほか、このブログでも紹介した『ゴジラのトランク』の本多猪四郎さん、『天気待ち』の野上照代さんなどが写っていてうれしくなる。黒澤さんと衝突した偉大な武満徹さんもちらっと写っていた。黒澤組の極度の緊張感の中で、大勢のスタッフが本気で取り組むシーンを終えて、時折見せる黒澤監督の笑顔が見事にこのドキュメンタリーに収まっている。あの笑顔だけでもこの映画の価値がある。黒澤監督の厳しさと優しさと、映画のために全力を捧げる執念が、この映画には溢れているのだ。
そして黒澤監督がこの映画について「人はなぜいがみ合うのか」という問いは、いままさにどこかの国で起きている戦争にも遡及するメッセージだ。奇しくも当時、ソ連で撮った『デルス・ウザーラ』で黒澤明は復活した。まさに彼こそ本当の世界人。洋の東西を問わず自分の求める映画のためにどこまでも進んでゆく国際人である黒澤明がここに存在する。この『乱』をいままさに世界の多くの政治家が見るべきではないだろうか。
たまたま短編映画の監督、木内一裕氏の特集上映があったとき、木内監督が世界50カ国以上で上映されている『明日の献立』に出演した渡辺哲さんが挨拶に来られていた。北野武監督や園子温監督の常連でもある渡辺哲さんは、この『乱』が映画デビューだった。そのときの思いで話をこのドキュメンタリー映画に寄せているコメントがあったので紹介しておく。
その後『まあだだよ』にも出演された渡辺哲さんは、もはや今となっては数少ない黒澤映画の生き証人だ。そんな渡辺さんはこの動画の中で、黒澤監督が「ほかの現場で黒澤組のことを言わないほうがいい。」と言っていたというエピソードなどを紹介されている。
これを機会に、『乱』もそうだが、それ以外の黒澤作品が再度見直されてもいいと思う。その理由は、世界がどんどん混乱してポピュリズムが台頭し、冷静さを失った国民とその国のリーダーが、まさに『乱』のような世界を推し進めているからだ。ほかにも『生きものの記録』や『8月の狂詩曲(ラプソディ)』など、黒澤監督が愚かな人間の業を示す作品がある。『悪い奴ほどよく眠る』や『天国と地獄』などの現代劇もまた普遍性のある作品だ。
時として忘れがちになりそうな日本の偉大なる遺産をこのような形で再現する行為を止めてはならないと思う。ぜひ見直してほしいドキュメンタリーである。
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