偶然と想像
3つの短編で構成される作品にはそれぞれの偶然と理屈っぽいセリフが重ねられる。そしていずれも黒沢清監督の影響もあるのかほとんど演技しない。棒読みのセリフ。そして映像とセリフの単調な焼増しのストレスをある偶然が開放してくれるというもの。この手法は小津安二郎を意識しているようで、結論はまるで違う。それぞれに印象深いシーンを重ね合わせる。もともと7つの短編を予定していたが、未完成のまま映画祭に出した作品だという。
第一話「魔法(よりもっと不確か)」
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ドストエフスキー 黒い言葉
なぜこの本に接することにしたのか記憶がないのだが、結論から言うと苦しかった。かつてドストエフスキーを何冊か読んだ苦しさとは別の苦しさ。ロシア文学に対峙するために、彼の国の歴史なども踏まえて理解する必要があったことをあらためて認識することになる。
亀山氏はこの本を現代社会に照らそうとしている。序文の印象な言葉として「AIとコロナの二重支配」というのがあるが、この苦しみをドストエフスキーの行きた時代になぞらえて、現代の貧困や格差は資本主義社会の矛盾などをえぐるような話に展開してゆく。しかし何しろ難解で、ベーシックな知識がないと辛い。
ドストエフスキーが『賭博者』の中で主人公に「金があればあなたに対して別人になれるのです。」と告白させるように、ドストエフスキーもまた賭博にのめりこみ借金に追われる人生であったことが解説される。彼の偉大な作品群が、安定した精神状態ではなく、むしろ追い込まれた苦しみの中から生まれたことを理解する。そしてその苦しみ、苦痛を愛するようになるというマゾヒズムが著作にも示されるという。例えば『地下室の記録』などがそれだ。
しかしドストエフスキーの作品にはまた、暴君のように愛すべき人物も描かれてゆく。同じ『地下室の記録』にそのことが書かれていて、愛することを精神的に優位に立つような支配欲に置き換えるシーンがある。
ここでなぜドストエフスキーを読もうと思ったか記憶が蘇る。
ブレッソンの『やさしい女』だ。あの映画を見て、いまいちどドストエフスキーについて学ぼうと思ったことを思い出す。
あの切れ味鋭い美しい映画の意味。金と愛が衝突するような苦しみがあの映画を支配していた。それが明らかにドストエフスキーの原作に起因するものであり、それをブレッソンが忠実に映像化したことを認識するのだ。
亀山郁夫氏のこの著書には「極度の欲求と大きな反作用」という言葉で説明されているが、誰かを愛し愛し尽くすことの反作用、映画では嫉妬として描かれる現象を、この著書ではドストエフスキーの言わんとする思想に重ね合わせている。ドストエフスキーは彼の父親が殺され、自らも死刑判決を下された苦しい経験から、彼の作品群にその凄まじい表現に至ることがよくわかる。
人は吸う息によって被害者となり、吐く息によって加害者となる
これはまさに現代のコロナ(パンデミック)を示唆し、SDGsに例えられる地球環境へも波及する予言となっている。ドストエフスキーの千眼だ。
当時のロシアが社会主義に向かう過程で、お互いが監視しあう密告社会は、資本主義が進化した現代もまた同じだろう。社会主義の失敗を置き去りにして資本主義社会にユートピアを求め続けた結果が、現代のデストピアへ結びついた。これはオーウェルの『1984』やブラッドベリの『華氏451度』へも大いに影響しているように思われる。
なんということだろう。このドストエフスキーのあまりにも普遍的な世界。彼の作品の多くが時代を超えて読みつがれる理由がおぼろげながら見えてくる。特に『カラマーゾフの兄弟』について言及される多くの解説は極めて蘊蓄のある内容だ。
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香川1区 大島新監督
大島新監督の『香川1区』を鑑賞。
・・・
ちょっと言葉が出ないぐらいの感動で嗚咽。前作『なぜ君は総理大臣になれないのか』へのアンチテーゼ。あちらは敗北でこちらは勝利。しかしながら、この映画が終わりではないというところが非常に難しい。立憲民主党の総裁選で落選した結果報告で終わらせるこの映画だが、北野武監督の『キッズリターン』からセリフを借りれば、
「おれたち、もう終わっちゃったのかな?」
「まだ始まっちゃいねえよ。」
負け犬のドラマの感動的なラストシーンは、この映画にも重なる。北野武が大島新監督の父大島渚監督の『御法度』で切り落とした桜の意味もまた思い越される。これは偶然というかこじつけなのだが、この映画の小川淳也陣営の勝利と、平井卓也陣営の敗北に見紛う狂気は同一のものだ。小川氏が言う通り「勝った51が負けた49を背負う政治」は聞こえはいい。しかし政治は清濁併せ持つものと言われる所以はこの振り幅の行方がまるで見えないという点に尽きる。
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ミックステープ 伝えられずにいたこと Netflix
つまり、2000年前夜のできごとを、さらに10年ほど遡った時代に流行った曲で盛り上げるのである。しかもその中には、ザ・ブルーハーツの『リンダ・リンダ』が含まれているのである。こう聞けばビバリーの母親がパンク好きだったことがすぐわかる。この時代の楽曲が我々でも親しみを感じる曲があって懐かしい。日本語の歌詞がわからなくて、家の反対側に住んでいる東洋人の女子に声をかえたら台湾人んだった、というオチも笑わせる。この純粋で健気なビバリーが実に可愛らしい。
少し年上のお姉さんや、中古レコード店のアンチ(あだ名)などのキャラが折り重なり、二人暮らしの祖母との距離や、学校で孤独だった彼女の発露などが描かれ、そこに流れる楽曲もまた物語とシンクロしているのだ。チープ・トリックやロキシー・ミュージックなどまで混在していて感動する。まさか!というレパートリー。”More than this”が1982年、”リンダ・リンダ”が1987年、”サレンダー”はもっと昔で1978年だと聞くと、やや脈絡がないようだが、自分的にはジャストミートだ。どの曲にも思い入れがある。そしてこのドラマの時代、2000年はミレニアム、時代の終焉と始まり、つまりはリボーンを思わせる混沌の中で、世界はどんどん国境というボーダーを消し去ろうとする時代でもある。この自由で闊達な少女の孤独を思うと、あれから20年という時間は、さらに子どもたちを不安に導いているようにも思える。常に時代は過ぎ去り忘れられる。
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モスラ 1961年
正直言うと、この偉大な映画をこのクオリティで劇場鑑賞できるとは思わなかった。『モスラ』は素晴らしかった。こんな映画だとは思わなかった。
俳優陣も素晴らしく、怪獣シリーズには珍しいフランキー堺さんが記者役で中心となっていた。『ゴジラ』で科学者の役だった志村喬さんは、今回は新聞社のデスク。全く違う役を演じるところが見事としか言いようがない。
ザ・ピーナッツのお二人や香川京子さんのお美しい姿が画面のアップになっていたのも感動的だ。映像だけでなく音響も素晴らしく、これほど見応えのある映画だったとは驚きだ。本多猪四郎監督の奥様が上稿された『ゴジラのトランク』にもあるとおり、本多監督が3度も出征した戦争体験はこの映画の様々なシーンにも反映されていてリアルだ。子供の頃はどうしても円谷英二さん側のミニチュアや怪獣にフォーカスして見た映画が、年とともに本多猪四郎監督の意図などがわかってきて、見るごとに映画の価値が変化してゆく。心から感動した。
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GUNDA/グンダ
冒頭のシーンで豚小屋の窓から小さな豚が次々に現れる。母親が子豚をたくさん産み落とすシーンの最後に、わらの下に埋もれた子豚の声が聞こえて、母親はその子豚を探すため鼻でわらをよける。しかし埋もれた豚はまともに歩くことができないと知ると、母豚はなんと・・・・
この映画には全く人間の気配がない。しかし最後の最後に画面いっぱいにトラクターの巨大なタイヤが現れる。それは自然を破壊する都市化をイメージするような巨大な力だ。そしてタイヤの向こうで何が起きているかは映さず、子豚たちの小さな声が幾重にも重なってゆく。その声は映画のはじまりで聞いたはずの生まれたての可愛らしい子豚の声とはまるで違う声に聞こえる。そしてトラクターは大きな音をたてて去ってゆく。
子豚が連れ去られた後、残された母豚は周囲を声をたててさまよう。その声は鳴き声ではなく”泣き”声だ。低い位置からのカメラはこの母豚をワンカットで延々と追い続ける。泣き声をあげてさまよう母豚が最後にどうしたかは、映画を見ていただくしかない。これで映画は終わる。
映画を見終えて街の喧騒を歩くと、それがまるで違うものに見えてくる。この人達は、もちろん自分も含めてブタやニワトリやウシの肉を食べて生きている。生かされている。しかしそれは命のはずだ。動物に限らず魚だって植物だって命だ。生きているのだ。生きている生きものを残酷にも殺めて自らの口に放り込む自分たち人間の様を自覚させる。こうした動植物を口にして「おいしい」と・・・
最も地球上で罪深い生きものの思惑で人工的に生かされて殺されてゆく動物を、とてつもなく美しい映像だけで突きつけるこの映画のつくり手の意思を想像する。この映画は人の首元に突きつけられたナイフのような切れ味がある映画だ。
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パワー・オブ・ザ・ドッグ Netflix
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