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しょうもない

偶然と想像

滝口竜介監督の作品に初めて触れる。

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3つの短編で構成される作品にはそれぞれの偶然と理屈っぽいセリフが重ねられる。そしていずれも黒沢清監督の影響もあるのかほとんど演技しない。棒読みのセリフ。そして映像とセリフの単調な焼増しのストレスをある偶然が開放してくれるというもの。この手法は小津安二郎を意識しているようで、結論はまるで違う。それぞれに印象深いシーンを重ね合わせる。もともと7つの短編を予定していたが、未完成のまま映画祭に出した作品だという。

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第一話「魔法(よりもっと不確か)」
タクシーの女性同士の会話が延々と繋がる。何が偶然か?はここに書くことはしないが、舞台劇のような単調な長い長い会話のあと、主人公のモデルの女性が想像を絶する行動に移る。そして最後、三人の空間が示される。急なズームに驚く。小津安二郎からヴィスコンティへ。

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そしてさらに不思議なドラマ。

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第ニ話「扉は開けたまま」
冒頭で学生が土下座するシーンと、その後の展開が予測不能。性的なシーンはまるでないのにセックスを描く。セックスというか性的な倒錯。この不思議な空間を教授の部屋の扉を開けて語られる。生徒の主婦は扉を締める。教授は扉を開ける。生徒は秘匿性の高いものだ。誰にでも他人に語ることができない心情を描こうとする。そして最後に偶然がもたらす恐ろしい結末。

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第三話「もう一度」
仙台の駅前でエスカレーターがすれ違う。噛み合わないことがこの物語の主題だ。学生時代友達同士だった二人の偶然の再会。しかしこの偶然がまるで違う結末に誘おうとする。単調な二人の会話がまるで違う結末へと向かう。
 
ああ、偶然か。
(=^・^=)
 
 

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ドストエフスキー 黒い言葉

亀山郁夫氏の著書に触れる。

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なぜこの本に接することにしたのか記憶がないのだが、結論から言うと苦しかった。かつてドストエフスキーを何冊か読んだ苦しさとは別の苦しさ。ロシア文学に対峙するために、彼の国の歴史なども踏まえて理解する必要があったことをあらためて認識することになる。

亀山氏はこの本を現代社会に照らそうとしている。序文の印象な言葉として「AIとコロナの二重支配」というのがあるが、この苦しみをドストエフスキーの行きた時代になぞらえて、現代の貧困や格差は資本主義社会の矛盾などをえぐるような話に展開してゆく。しかし何しろ難解で、ベーシックな知識がないと辛い。

ドストエフスキーが『賭博者』の中で主人公に「金があればあなたに対して別人になれるのです。」と告白させるように、ドストエフスキーもまた賭博にのめりこみ借金に追われる人生であったことが解説される。彼の偉大な作品群が、安定した精神状態ではなく、むしろ追い込まれた苦しみの中から生まれたことを理解する。そしてその苦しみ、苦痛を愛するようになるというマゾヒズムが著作にも示されるという。例えば『地下室の記録』などがそれだ。

しかしドストエフスキーの作品にはまた、暴君のように愛すべき人物も描かれてゆく。同じ『地下室の記録』にそのことが書かれていて、愛することを精神的に優位に立つような支配欲に置き換えるシーンがある。

ここでなぜドストエフスキーを読もうと思ったか記憶が蘇る。

ブレッソンの『やさしい女』だ。あの映画を見て、いまいちどドストエフスキーについて学ぼうと思ったことを思い出す。

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あの切れ味鋭い美しい映画の意味。金と愛が衝突するような苦しみがあの映画を支配していた。それが明らかにドストエフスキーの原作に起因するものであり、それをブレッソンが忠実に映像化したことを認識するのだ。

亀山郁夫氏のこの著書には「極度の欲求と大きな反作用」という言葉で説明されているが、誰かを愛し愛し尽くすことの反作用、映画では嫉妬として描かれる現象を、この著書ではドストエフスキーの言わんとする思想に重ね合わせている。ドストエフスキーは彼の父親が殺され、自らも死刑判決を下された苦しい経験から、彼の作品群にその凄まじい表現に至ることがよくわかる。

人は吸う息によって被害者となり、吐く息によって加害者となる 

これはまさに現代のコロナ(パンデミック)を示唆し、SDGsに例えられる地球環境へも波及する予言となっている。ドストエフスキーの千眼だ。

当時のロシアが社会主義に向かう過程で、お互いが監視しあう密告社会は、資本主義が進化した現代もまた同じだろう。社会主義の失敗を置き去りにして資本主義社会にユートピアを求め続けた結果が、現代のデストピアへ結びついた。これはオーウェルの『1984』やブラッドベリの『華氏451度』へも大いに影響しているように思われる。

 

なんということだろう。このドストエフスキーのあまりにも普遍的な世界。彼の作品の多くが時代を超えて読みつがれる理由がおぼろげながら見えてくる。特に『カラマーゾフの兄弟』について言及される多くの解説は極めて蘊蓄のある内容だ。

 

 

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香川1区 大島新監督


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大島新監督の『香川1区』を鑑賞。

・・・

ちょっと言葉が出ないぐらいの感動で嗚咽。前作『なぜ君は総理大臣になれないのか』へのアンチテーゼ。あちらは敗北でこちらは勝利。しかしながら、この映画が終わりではないというところが非常に難しい。立憲民主党の総裁選で落選した結果報告で終わらせるこの映画だが、北野武監督の『キッズリターン』からセリフを借りれば、

「おれたち、もう終わっちゃったのかな?」

「まだ始まっちゃいねえよ。」

負け犬のドラマの感動的なラストシーンは、この映画にも重なる。北野武が大島新監督の父大島渚監督の『御法度』で切り落とした桜の意味もまた思い越される。これは偶然というかこじつけなのだが、この映画の小川淳也陣営の勝利と、平井卓也陣営の敗北に見紛う狂気は同一のものだ。小川氏が言う通り「勝った51が負けた49を背負う政治」は聞こえはいい。しかし政治は清濁併せ持つものと言われる所以はこの振り幅の行方がまるで見えないという点に尽きる。

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この映画は対立を描く。平たく言えば善と悪の対立だ。平井陣営がどんどん悪の巣窟のように、あるいはチンピラヤクザのような大人気ない軍団と化してゆく様は狂気だ。小川氏が”叡智と狂気”というように、選挙はいかなる常識をも覆す恐ろしい毒を持った世界だ。それをわかった上で小川氏は真正面から政治にぶつかろうとする。

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そして彼を支える家族や支援者はいかにも弱々しく、ヤクザ軍団のように描かれる平井陣営に比べれば悲しいほどに優しい。強さと優しさ。この映画は小川淳也という人物を徹底的に善として描ききる。そして最後、この映画が公開される前の結果を知った上で描かれる当選した瞬間の喚起は見る側に圧倒的な感動を呼び起こす。小川氏の長女が「正直者がバカを見る世の中」のあのセリフがこの映画の全てを物語るといっていいだろう。

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これだけの感動を得て、政治という誰もが諦めかけたもの、絶望していたものに光を当てようとする姿勢に感動しつつも、実はこれからが茨の道である。この映画はじんわりとその余韻を残しつつ終わる。仮にもし小川淳也が総理大臣になれば、彼が悪役となり日が来ないと誰が保証できるのであろうか。平井卓也だって、あの政党の祖先として生まれなければ、あれほどみじめなダークサイドに落ちることもなかったはずだ。善と悪は表裏一体の同一なのである。

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大島新監督は十分理解して今頃逡巡していることだと思うが、彼がこの映画を結果として終結させるとは思えない。この映画はたしかに感動を呼び、傑作であることに間違いはない。100点満点の映画だと思う。しかし、これは映画なのだ。ドキュメンタリーという映画なのである。それを思うと、必ず今村昌平監督の『人間蒸発』が蘇る。ドラマか真実か。ドラマは真実からしか生まれない。それでもドラマであることは変わらない。ドキュメンタリーというカメラの強迫性を十分理解したうえで、政権与党であるあの党を敵に回してこの映画を撮り切ることの覚悟が大島新監督には見える。そして彼の背後にもまた、あの偉大な監督の姿が乗り移ったように感じさせるのだ。

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戦いは始まったばかりだ。
 
 

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ミックステープ 伝えられずにいたこと Netflix

ミックステープ』をNetflix鑑賞。小気味よく惹きつけて幅広い鑑賞者を呼び起こす見事な映画だった。
孤独な少女、日本だと小学6年生ぐらいの少女は祖母と二人暮らし。ある日亡くなった自分の母が残したカセットテープを聞いて様々なことの目覚めてゆくというお話。そしてそのミックステープの中身に驚くべき秘密が隠されていた、という物語。少女がどんどん成長してゆく可愛らしい姿が描かれる。

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ときは1990年代も終わる頃、2000年問題といって忘れてしまった方も多いかもしれないが、年代が代わることどコンピューターが全て麻痺するのではないか?という懸念が今思うと都市伝説のように広がって、世紀の終わりがやってくるようなちょっとした騒ぎになった年。そこから遡って、主人公の少女ビバリーが母親の聞いていたカセットテープの曲を再生するのね。これ着想が面白い。

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つまり、2000年前夜のできごとを、さらに10年ほど遡った時代に流行った曲で盛り上げるのである。しかもその中には、ザ・ブルーハーツの『リンダ・リンダ』が含まれているのである。こう聞けばビバリーの母親がパンク好きだったことがすぐわかる。この時代の楽曲が我々でも親しみを感じる曲があって懐かしい。日本語の歌詞がわからなくて、家の反対側に住んでいる東洋人の女子に声をかえたら台湾人んだった、というオチも笑わせる。この純粋で健気なビバリーが実に可愛らしい。

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少し年上のお姉さんや、中古レコード店のアンチ(あだ名)などのキャラが折り重なり、二人暮らしの祖母との距離や、学校で孤独だった彼女の発露などが描かれ、そこに流れる楽曲もまた物語とシンクロしているのだ。チープ・トリックやロキシー・ミュージックなどまで混在していて感動する。まさか!というレパートリー。


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”More than this”が1982年、”リンダ・リンダ”が1987年、”サレンダー”はもっと昔で1978年だと聞くと、やや脈絡がないようだが、自分的にはジャストミートだ。どの曲にも思い入れがある。そしてこのドラマの時代、2000年はミレニアム、時代の終焉と始まり、つまりはリボーンを思わせる混沌の中で、世界はどんどん国境というボーダーを消し去ろうとする時代でもある。この自由で闊達な少女の孤独を思うと、あれから20年という時間は、さらに子どもたちを不安に導いているようにも思える。常に時代は過ぎ去り忘れられる。

 

 

 
 
 

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モスラ 1961年

正直言うと、この偉大な映画をこのクオリティで劇場鑑賞できるとは思わなかった。『モスラ』は素晴らしかった。こんな映画だとは思わなかった。

 

 
1分ほど、映画の始まる前に音楽が流れるのだが、昔の映画はよくそういうことがあったようだ。今のようにネットで指定席を取れる時代ではないので、回の間で入れ替わるとき、座席につくまでの時間を確保する目的だったと思われる。『2001年宇宙の旅』や『風と共に去りぬ』あるいは『ベン・ハー』などもそうだったのではないか。ちなみに『モスラ』の音楽は伊福部昭さんではなく古関裕而さんが担当されている。ザ・ピーナッツが出演するからだったのだろう。古関裕而さんというと、夏に一人で東北を歩いたとき、駅前に古関裕而さんの記念碑などがあったのが思い起こされる。『モスラ』のテーマは永遠だ。

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最初に巨大なタイトルが出たシーンからもう感動してしまう。子供の頃漠然と見ていたこの映画が、なんと政治的な内容だったとは知らず、驚くシーンばかりだった。

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俳優陣も素晴らしく、怪獣シリーズには珍しいフランキー堺さんが記者役で中心となっていた。『ゴジラ』で科学者の役だった志村喬さんは、今回は新聞社のデスク。全く違う役を演じるところが見事としか言いようがない。

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ザ・ピーナッツのお二人や香川京子さんのお美しい姿が画面のアップになっていたのも感動的だ。映像だけでなく音響も素晴らしく、これほど見応えのある映画だったとは驚きだ。本多猪四郎監督の奥様が上稿された『ゴジラのトランク』にもあるとおり、本多監督が3度も出征した戦争体験はこの映画の様々なシーンにも反映されていてリアルだ。子供の頃はどうしても円谷英二さん側のミニチュアや怪獣にフォーカスして見た映画が、年とともに本多猪四郎監督の意図などがわかってきて、見るごとに映画の価値が変化してゆく。心から感動した。
(=^・^=)
 
 
 

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GUNDA/グンダ

新宿武蔵野館の系列映画館、すぐ近くにあるシネマカリテで『GUNDA/グンダ』を鑑賞する。『悪なき殺人』鑑賞後すぎ移動する。綱渡り。この映画館はブレッソンの『田舎司祭の日記』以来。

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どこかでこの映画の予告編とチラシを見て、必ず見ようと思っていた。広告宣伝とはいえ多くの著名な映画監督がこの映画を絶賛している。ポール・トーマス・アンダーソンアルフォンソ・キュアロンアリ・アスターガス・ヴァン・サントらが絶賛のコメントを寄せており、ホアキン・フェニックスがプロデューサーとして参加している、という映画だ。これを見ないわけにはいかないだろう。

 

簡単に説明するなら、この2分ほどの予告編を見れば必ず見たくなる。この美しいモノクロ映像と豚を中心とする生きのものの生態が、ナレーションもセリフも音楽もなく延々と映し出される。しかしフレデリック・ワイズマン監督の『ボストン市庁舎』も全く演出のないありのままを映す映画だったわけだが、人為的な社会とこの自然の摂理を描く映画とでは全く違う。

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このあたりのことは、映画が終わった後に評論家の森直人さんと放送作家町山広美さんの解説で丁寧に説明されるのだが、冷静によくよく考えてみると、豚は人が食用に作った生きものなのだ。もともと豚はイノシシだった。それを人に安く提供できるように改良されたものなのだ。映画ではニワトリとウシについても描かれるのだが、いずれも人のために作られた動物なのである。そう思うととてつもなく恐ろしくなってくる。

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そういう裏側を知らずに粛々とこの映画を鑑賞したら、きっと美しい映画というだけで終わるだろう。とにかく美しいのだ。聞くところによると、この映画は相当に演出が施されているようで、例えば光の加減などについては、その美しい映像はミラーボールなどを使ってかなり作り込まれた映像の積み重ねなのだそうだ。

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このお二人の解説を聞いてまるで映画の見方が変わるのだが、たしかにこの映画に出てくる動物にはどこか欠落しているものがある。その象徴として片足しかないニワトリをカメラが延々と追うシーンがある。片足がなくても何事もなかったかのように生きるニワトリを追う。その傍らで、全く感じ方の違うシーンがある。

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冒頭のシーンで豚小屋の窓から小さな豚が次々に現れる。母親が子豚をたくさん産み落とすシーンの最後に、わらの下に埋もれた子豚の声が聞こえて、母親はその子豚を探すため鼻でわらをよける。しかし埋もれた豚はまともに歩くことができないと知ると、母豚はなんと・・・・

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この映画には全く人間の気配がない。しかし最後の最後に画面いっぱいにトラクターの巨大なタイヤが現れる。それは自然を破壊する都市化をイメージするような巨大な力だ。そしてタイヤの向こうで何が起きているかは映さず、子豚たちの小さな声が幾重にも重なってゆく。その声は映画のはじまりで聞いたはずの生まれたての可愛らしい子豚の声とはまるで違う声に聞こえる。そしてトラクターは大きな音をたてて去ってゆく。

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子豚が連れ去られた後、残された母豚は周囲を声をたててさまよう。その声は鳴き声ではなく”泣き”声だ。低い位置からのカメラはこの母豚をワンカットで延々と追い続ける。泣き声をあげてさまよう母豚が最後にどうしたかは、映画を見ていただくしかない。これで映画は終わる。

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映画を見終えて街の喧騒を歩くと、それがまるで違うものに見えてくる。この人達は、もちろん自分も含めてブタやニワトリやウシの肉を食べて生きている。生かされている。しかしそれは命のはずだ。動物に限らず魚だって植物だって命だ。生きているのだ。生きている生きものを残酷にも殺めて自らの口に放り込む自分たち人間の様を自覚させる。こうした動植物を口にして「おいしい」と・・・
最も地球上で罪深い生きものの思惑で人工的に生かされて殺されてゆく動物を、とてつもなく美しい映像だけで突きつけるこの映画のつくり手の意思を想像する。この映画は人の首元に突きつけられたナイフのような切れ味がある映画だ。
 
 
 
 
 
 
 

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パワー・オブ・ザ・ドッグ Netflix

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ニュージーランド人のジェーン・カンピオン監督が作り上げた『パワー・オブ・ザ・ドッグ』をNetflixで鑑賞。『ピアノ・レッスン』で世界にその名を轟かせたカンピオン監督がまさに”作り上げた”というのに相応しい苦労をされて出来上がった傑作だ。コロカ渦で4ヶ月の撮影中断をはさみ、映画そのものがお蔵入りする懸念の中で、スタッフやキャストが撮影地のニュージーランドに残って撮影を続行したという。そうした苦労を映画の中に見出すことはできないが、冷静で冷徹ともいえる徹底した美へのこだわりを感じさせる。
1925年頃のモンタナが舞台。主人公はカンバーパッチが演じるカウボーイ。このフィルという男は、まさに男。女性を嫌い女々しい男をも嫌う。弟の妻として嫁いできたキルスティン・ダンスト演じるローズと彼女の連れ子ピーターにフィルは徹底的に嫌悪を示す。前半はこの苦痛に耐える映画となっている。フィルが女性を虐げる。屈辱を受けるローズとピーターという関係が延々と示される。これでもかというほどの苦痛。
ふと前日鑑賞した『ナイト・イン・ザ・ソーホー』が重なる。あの映画も女性が虐げられる映画。『Swallow スワロウ』という映画もそうだが、極めて美しい映像に虐待される女性を重ねるという手法はインパクトが強い。女性監督のカンピオン監督が、モンタナの風景をロケ地のニュージーランドの美しい映像に重ねてこの映画を撮った狙いが伝わる。しかしこの映画の風景は男性的だ。そしてこの風景にもまた深い意味があり、後半で明らかとなってくる。
フィルに追い込まれたローズがアルコールに依存してゆくさまもリアルだ。家に閉じ込められた女性のストレス。彼女は得意のピアノを弾くこともできないほどのストレスの果てに、捨てられた瓶からアルコールを舐めるほどおちぶれてゆく。
見かねた女性的な雰囲気の息子ピーターは、周囲から嘲笑されながらも、フィルの男らしい姿勢に近づこうと努力を始める。そして少しずつフィルの信頼を得て、お互いの信頼が築かれてゆくのだが・・・
この映画は愛のカタチを問う。男性の女性に対する愛だけではなく、男と男の友情を超えた関係もまたこの映画のテーマになっている。そして驚くべきラストへ繋がってゆくのだが、このラストには言葉を失う。この衝撃のラストは単純ではない。この美しい映画の結末が、人間の深層心理を掘り下げる深い内容であることが、最後の数分で明らかにされる。

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美しく単調な映画が最後にもたらす驚きに、見る側は耐えられるのだろうか。
すごい映画だ。2度見ても楽しめる映画、いや2度以上見てはじめて見えてくるものがある映画ではないだろうか。
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